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11月14日の文学講座は、わたしにとって非常に有意義なものでした。
 先日来「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」のシナリオ執筆に向けて、色々と調査をしてきました。
 舞台が昭和9年(1934年)ということもあり資料調査も難航しています。

太宰が三島について書いた小説「老(アルト)ハイデルベルヒ」の

「あ、バスだ。今は、バスもあるのか。」と私はてれ隠しに呟(つぶや)き、「おい、バスが来たようだ。あれに乗ろう!」と勇んで友人達に号令し、みな道端に寄って並び立ち、速力の遅いバスを待って居ました。やがてバスは駅前の広場に止り、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが白浴衣(ゆかた)着てすまして降りました。私は、唸(うな)るほどほっとしました。」

 当時の東海道本線「三島駅(現、JR東海、御殿場線下土狩駅)」の「乗合バス」について「この駅から三島の広小路まで運行していたバス会社はどこなのか?また運賃はいくらだったのか?」など、ひとつひとつを検証していくと膨大な資料を調査しなくてはなりません。
 ですから、講演で中尾氏が言われていた「調査と検証は大変だ!」は頷けました。

 そんなこともあり文献資料からは見出せない部分で、中尾氏が当事者から直接聞いたものについては大変参考になります。

 その一例として、小説「満願」についてのくだりで主人公が自転車で転んで怪我をした経緯について、

坂部武郎さん「確か伊豆国分寺の境内だったと思います。」だったり、

怪我をした主人公を治療した「まち医者」については、

「今までの調査で99%で、当時、産婦人科を開業していた今井直先生ではないか。と確信している。」

 また、根拠の裏付けとして、当時、今井医師が勤務していた「三島社会保険病院」や「奥様」、そのご子息まで聞き取り調査をされていることに感銘を受けます。

 わたしも、小説「満願」を読んでみて、改めて中尾氏の著書「三島文学散歩」に掲載されている写真を見た時、太宰が描写したイメージから推察すると、やはり今井直医師ではないかと思います。
 今井医師は「俳句や俳画で活躍した趣味の豊かな文化人である一方、大変な※「艶福家(えんぷくか)」でもあり芸者置屋「加賀稲」の葉書姐さんとは親密な仲だったようです。」
 当時、三島花柳界は全盛期で町内にあった「六反田(現、広小路)」の「広瀬楼」や「料亭 登喜和」、「大中島町(現、本町)」の「料亭 双葉」などでは、連日連夜、盛大に酒宴が催されていたようで、夕刻ともなると芸妓や舞子さんが町内のあちらこちらでしゃなりしゃなりと歩いている光景が目に浮かぶようです。
 その後、三島の衰勢とともに三島花柳界も衰退の一途を辿り六反田(現、広小路町)にあった「芸妓組合」もなくなってしまいますが、中尾氏の話では、三島の芸妓たちは千葉に移られたそうです。
 
 わたしは、シナリオの中で「まち医者」を「産婦人科医」として、また、三島花柳界でも名妓といわれた「葉書姐さん」を登場させ、主人公の津島修治に「人間の誕生」と「命の尊さ」「芸妓」の※「機微(きび)」を諭す役回りをしていただこうかと考えています。

※「艶福家(えんぷくか)」・・多くの女性に愛され慕われる男性。
※「機微(きび)」・・表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情。

 ここからは、わたくし事で恐縮ですが・・・今井直医師を調査していて「ふと」昔の出来事を思い出しましたので少し述べさせていただきます。

わたしが大学を卒業してある会社に入社して間もない頃の話です。
 ある日のこと。残業もひと段落し先輩に飲みに誘われ会社の近くにあった「ディオール」というスナックに行きました。
 当時は、今のようにキャバクラ全盛ではなく飲みに行くといえば、もっぱらスナックでした。どのお店も店内の照明は少し暗め目で、ほとんどのお店はカウンターとボックス席。そしてカラオケが定番でした。
 今のようにキャバクラでドンチャン騒ぎという乗りはなく落ち着いた雰囲気の中で女の子との会話とカラオケでのデュエットを楽しみました。

 その日は先輩のキープボトルで乾杯し、先輩のお気に入りのB子さんと他愛もない世間話をしていましたが、暫くして出勤してきたのがA子さんでした。その姿を見て、わたしはひと目で気に入りました。色白で何処となく影のあるような、およそ水商売には不向きな感じの女性でした。
 それから、給料が入ると月に何回かは行くようになり、気心が知れてくるとお互いに少しプライベートな内容に触れるようになりました。

 このときA子さんは某国立病院の小児科に勤務していました。彼女の話では新潟出身で地元の高校を卒業後、この病院の准看護学校に入学し准看護婦の資格を取得してからは産婦人科や小児科を担当するようになったということです。
 国立病院では、一般の病院や医院では対応できない重病や難病の患者を受け入れます。毎日のように近隣の病院からの紹介で色々な患者さんが診察に訪れたそうです。

みなさんは「無脳症」という病気をご存知でしょうか?

「妊娠中の胎児の脳が正常に形成されない病気で1万人に3~5人が発症し、ほとんどの場合、死産するか出生直後に死亡する病気だそうです。」

 ある日のこと。いつものように話をしていると、突然、A子さんがこの「無脳症」のことについて話をはじめました。
 その日、わたしは彼女を落とすつもりでいましたが、何もせずタクシーでそのまま自宅まで送り届けました。
 その後、お店ではプライベートな話はしなくなり最後まで彼女からお店に勤めた理由を聞くことはできませんでした。暫くして、わたしの転勤などもあり挨拶もしないまま連絡先も取らずに彼女とは終わってしまいました。
 思えば、あの時余程辛い事があったんだと思います。ですから親しい友人もなく、わたしに打ち明けたのだと・・・。
 今、考えると彼女自身、隔絶された夜の世界に身を置くことで精神を安定させていたんだと思います。

 その他にも、看護婦(師)をやっていて、一番辛かったのは診察に来る重い病気を抱えている子供のお母さんたちの顔だったそうです。
 今の医療は、昔とは違い高度な医療技術と治療薬により、子供の病気や妊娠・出産における女性の負担は軽減されていますが、やはり危険は伴います。母親になるということは男性が思っている以上に大変なことなのです。ですから職業とはいえ看護婦として、はたまた、ひとりの人間として、また、同じ女性として、その方たちの心情を思うと居た堪れない気持になったそうです。

 ご紹介したのはある病院に勤務していた看護婦(師)さんの話でしたが、それ以上に今井先生には色々な経験があったと推察します。
 太宰治は、幸運にもそんな産婦人科の医師にめぐり合い、1ヶ月という短い期間ではあったにせよ色々な話を聞いていたに違いありません。
 このことこそが、親友の坂部武郎さんをはじめ妹の愛子さんなど三島で出会った人たちに触発された重大な「三島の思想」だったのではないでしょうか。


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 古今東西、女性にとって「開運」や「健康」はたまた「安産」や「恋愛成就」など寺社・仏閣に詣でる風俗習慣は変らないようです。
 先日、「圓明寺(三島市芝本町)」にある「三島の宿場女郎」の永代供養塔(無縁仏)についてご紹介しました。
 そんな農兵節にも登場する東海道の街道筋でも美人が多かった「三島女郎衆」も性交渉による病気感染に関しては非常に敏感だったようです。

 1929年(昭和4年)イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングにより「ペニシリン(Penicillin)抗生物質」が発見されるまで「瘡毒(そうどく)(梅毒)」の決定的な治療法はありませんでした。
 すでに日本国内で蔓延していた「瘡毒(そうどく)(梅毒)」の起源については、今だ諸説あり研究者の間でも議論が分かれるところでが、そんな中、2008年2月に「梅毒の”起源”はコロンブス隊 米研究者」という論文が発表されます。

「性病、梅毒の起源となったのはイタリアの冒険家、コロンブスの航海だった-。米国の科学者がこのほど、病原菌の遺伝学的な研究により「15世紀末にコロンブス船団の乗組員が米大陸で感染した風土病が起源」との米大陸起源説を確認したと学会誌に発表した。
 梅毒の起源は、1490年代にイタリアで突然、記録に現れたことなどによる欧州起源説と、コロンブスらの航海で欧州にもたらされた米大陸起源説など諸説があり、長年、論争となっていた。
 研究を行ったのは、米ジョージア州アトランタにあるエモリー大のハーパー氏らのチーム。梅毒などを起こす細菌「トレポネーマ」を全世界で採取し、26サンプルを比較研究。その結果、梅毒は南米などで見られる熱帯風土病「フランベジア」に近い病気だと分かった。
 ハーパー氏らはこの発見に基づき、1492年に米大陸に到達したコロンブスの船団の乗組員がフランベジアに感染。船団の欧州帰還後、細菌は欧州の冷涼な気候に適応し、梅毒を起こす細菌に変異したとの説を立てた。その裏付けとして、コロンブスの航海以前に世界で梅毒発生が確認されていないことなどを挙げている。(共同)」(「産経ニュース」2008.2.8 より引用)

 日本で「瘡毒(そうどく)(梅毒)」が登場したのは、富士川游(ふじかわ ゆう)博士が発掘した書「月海録(竹田秀慶(たけだしゅうけい)著)」に書かれていて、室町時代の末期「永正(えいしょう)9年(1512年)」に「畿内(「山城国」京都府京都市以南)」で日本初の※「罹患(りかん)者」が出現したとあります。その呼称も多彩で「唐瘡(とうがさ)」「広東瘡(後に省略されて広瘡)」「琉球瘡」と呼ばれていたそうです。(呼称が多いのは感染経路に関係していて「唐瘡」→「広東瘡」→「琉球瘡」だとされています。)

※「罹患(りかん)」・・病気にかかること。

 この性感染病は人間を介して感染しますが、その感染経路は主に男女の性行為によるもので、当時、隆盛を極めていた江戸の吉原遊廓をはじめ全国に点在する※「遊廓」や街道の宿場町の「飯盛旅籠」など遊女を抱えていたところでは深刻な問題になっていました。
 そのことは、話題のドラマ「JIN-仁-(TBS系列)(第5話(2009年11月8日放送)「神に背く薬の誕生」(視聴率20.3%)」(毎週、日曜日、午後9時~9時54分)でも描かれています。
 ドラマ「JIN-仁-」では、吉原の遊廓「鈴屋」の花魁「野風(のかぜ)(中谷美紀さん)」の先輩「夕霧(ゆうぎり)(高岡早紀さん)」姉さんが、重度の「瘡毒(そうどく)(梅毒)」に侵され余命幾ばくも無い状態、主人公の「南方仁(みなかた じん)(大沢たかおさん)」は治療するよう懇願されますが、当時は、まだ特効薬の「ペニシリン」が存在しない為・・・。

「遊女」にとって日々の仕事とはいえ流行していた「瘡毒(そうどく)(梅毒)」は心配の種だったに違いありません。
 当時の実情としては、ほとんどの遊女たちは「瘡毒(そうどく)(梅毒)」に感染した場合、暫く床に臥しますが潜伏期に入って症状が収まると治ったと勘違いして仕事に復帰します。(このことが一人前の遊女としての証しといわれていました。)
 潜伏期を過ぎ年月が経つと病気が悪化することになります。一般的に年季奉公が10年から15年だとするとドラマのように最後は重篤な状態になってしまいます。
 ですから「禿(かむろ)(7歳~8歳頃の遊女見習いの幼女)」の頃から、このような光景を見てきている彼女たちにとっては非常に深刻な問題となる訳です。 しかし、年季奉公中、働かなくてはならない身としては、このような性感染症に罹患(りかん)したからといって休む訳にもいきません。
 ですから遊女にとって「性感染症への罹患(りかん)」は、まさに死活問題となってしまいます。
 そこで、せめてもの慰めとして「瘡守(かさもり)稲荷」を信仰し「安泰」を願うという女心だったのかもしれません。

 この「瘡守(かさもり)稲荷」の起源について文献を調べてみると、現在の兵庫県高槻市にある「笠森稲荷」が最初とされています。その後、ご利益があると評判になり、各地に「※勧請」され祀られるようになったようです。

※「勧請(かんじょう)」・・神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。

①「笠森稲荷」

「笠森稲荷(かさもりいなり)は、大阪府高槻市にある稲荷神社と、そこから※「勧請(かんじょう)」された神社のことである。笠森稲荷神社、笠森神社とも呼ばれる。 瘡(かさ、かさぶた)平癒の神として信仰された。
 笠森は瘡守(かさもり)と音を通じて、※「瘡平癒(かさへいゆ)」から、皮膚病のみならず梅毒に至るまで霊験があるとされ、江戸時代後期には各地に広まった。
 病気平癒を祈って土の団子を供え、治癒すると米の団子を供えることが慣わしになっている。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

※「瘡平癒(かさへいゆ)」・・皮膚のできもの、はれものが治ること。

②「江戸谷中(台東区上野)。笠→瘡,森→守から,梅毒に効験があると信じられ,日ましに江戸者の信仰があつくなった。
 天正12年(1584),羽柴秀吉と徳川家康が長久手で戦った折り,家康は腫れ物に悩まされていたが,家臣の倉智甚左衛門が摂津の国島上郡真上村の笠森稲荷に祈ったところ快癒してなおも戦勝をもたらした。天正18年(1590),家康が江戸に居城を構えたとき,甚左衛門も江戸入りをして,真上村の笠森稲荷を江戸谷中に勧請したと伝えている。
 現在,東京上野の谷中には笠森稲荷を祀っている寺が三箇所ある。天台宗養寿院,浄土宗功徳寺,日蓮宗大円寺の寺々であるが,江戸古図の所在地からみると,浄土宗功徳寺が一番近いように思える。
 この笠森稲荷の本源は,大阪市高槻市真上に鎮座する笠森稲荷社である。」(「木のメモ帳」HP 番外編「江戸に遊ぶ」「江戸生活・風俗ことば」より引用)

 すでに日本各地に勧請されていた「笠森稲荷(かさもりいなり)」ですが、「三島女郎衆」は三島宿に唯一あった「誓願寺(三島市北田町)」の「瘡守(かさもり)稲荷」を信仰していたようです。文献(「東海道箱根峠への道-箱根八里西坂道の歳月-(中部建設協会静岡支部編集)」P104~P121)に掲載されている写真の社(やしろ)には沢山の小さな白狐が奉納されています。

 今回は「三島女郎衆」が信仰していたという「誓願寺(三島市北田町)」の「瘡守(かさもり)稲荷」にお伺いしました。

「誓願寺」は「三島市役所(三島市北田町)」の南隣にあります。

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「県道21号線向側から「誓願寺」を見たところ」(2009年10月撮影)

またまた、突然、お伺いしてしまいましたが、ご住職は快く応対してくださいました。

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「誓願寺」(2009年10月撮影)

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「誓願寺」(2009年10月撮影)

早速、掲載されている「稲荷」についてお聞きしたところ、

 ご住職のお話では記憶は定かではありませんが、平成7年(1995年)頃「県道21号三島裾野線」(国道1号線南二日町I.C(三島市東本町2丁目)の起点から「県道22号三島富士線(旧東海道)」の大社町西交差点まで)の道路拡張・拡幅工事に伴い「誓願寺(三島市北田町)」の一部と隣接していた「田福寺」が計画路線にかかっていたため「田福寺」は三島市谷田に移転し「誓願寺」の境内にあった「瘡守(かさもり)稲荷」も解体撤去されることになったそうです。ですから現在はお社はありません。(当時の写真の有無についてお尋ねしたところ手元にはないとのこと。)
 最後に、ご住職に持参した当時の写真が掲載されている文献(「東海道箱根峠への道-箱根八里西坂道の歳月-(中部建設協会静岡支部編集)」P104~P121)を見ていただき確認していただきました。ゆくゆくは改めて稲荷を祀る計画があるそうです。

※写真にはお社に沢山の小さな白狐が奉納されています。写真提供は「三島市郷土資料館」となっていますので追加調査してみます。

ご住職どうもありがとうございました。

〇追加取材

「三島遊廓」について

 最後まで残っていた「萬字楼」の建物は、三島市立図書館に所蔵されている一番古い「ゼンリンの住宅地図、三島-附長泉・函南-’72年版」(東海善隣出版)を見てみると昭和47年には所在地は「村岡荘」となっています。
 その後、いつ取り壊されたかは不明です。(「伊豆(谷亀利一著、湊嘉秀著)」(保育社)の7ページに「三島遊廓跡」として写真が掲載されています。)
 現在、所在地と思われる場所は一般住宅となっていました。

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「右手奥が所在地だった場所です。」(2009年10月撮影)




資料

「遊廓」

「近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原遊廓を設けた。17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。島原、新町、吉原が公許の三大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。」(リー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

「花魁」

「花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。 18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。
 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


2009年11月14日(土)「図書館文学講座」は午後2時からの予定だったので時間的には余裕がありました。

 この日、私は、かねてから予定していた三島市立図書館主催の「平成21年度三島市立図書館文学講座」に参加すべく朝からテレビの天気予報を気にしながら準備をしておりました。

 最寄の駅に到着した時には、まだ小雨が降っていましたが、三島はここよりは西にあるということで天候が回復していることを祈りつつ電車に乗ります。暫くして東海道線に乗り換え三島に向かいます。

熱海駅を過ぎ長い長い丹那トンネルを抜けると、すでに雨は止んでいました。

 よく箱根山を境に天候がガラリと変ると聞きます。箱根連峰最高峰 の「神山(かみやま)」の標高が1,438m。箱根連峰中央火口丘と二重の外輪山で構成された箱根山は神奈川県と静岡県にまたがり江戸時代から東海道の難所でもありました。現在は、交通機関の発達により交通には不便はありませんが、こと天候に関しては今だ影響力があります。

 いつものように三島駅の南口を出て愛染坂を下り、まだ時間がありましたので、折角なので「白滝公園」を散策することにしました。
 この時期、園内は湧水も枯れ湧水口の岩肌に木々の落ち葉が降り注ぎ、また違った風情を感じます。

 今回、会場になったのは「三島市民生涯学習センター」の3階にある「講義室」で、正確に言いますと三島市立図書館があるのは「三島市民生涯学習センター」の1階ということになります。

早速、3階の講義室にエレベータで向かいます。

 エレベーターを降りると正面の市民ギャラリーでは市民団体主催の展示会が開催されていました。さすがに文教都市を標榜しているだけあって市民レベルでの文化活動は盛んなようです。

「太宰治生誕百年、三島・伊豆での作家活動とその生活」講座の定員は150名。入場無料・申込み不要。

講義室の入り口で受付を済ませます。

 当日は天候が悪かったので、どうかとは思いましたが、会場に入ってみると、すでに約100名位の方たちがおられました。一通り見渡してみると聴講者のみなさん平均して高齢の方が多く私が一番若かったんじゃないでしょうか。当日の服装が新聞か雑誌の記者みたいだったので少し浮いていたような気もします。
 あと教科書などで作品にふれる機会がある太宰文学なのに学生さんの姿がなかったのは少し寂しい気がしました。

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「文学講座の様子」(2009年11月14日(土)撮影)

 午後2時、予定時間通りに講座ははじまりました。進行役の女性職員の案内から図書館長の挨拶へと移ります。壇上に用意された席にお座りになっている中尾氏は終始リラックスされ紹介されるのを待っておられました。

いよいよ、中尾氏の登場です。

簡単な挨拶から、早速、本題にはいります。

 わたしとしては、この企画のきっかけとなった「三島文学散歩」の著者である中尾勇氏による講座ということで、ご本人から色々なエピソードなどが聞けるのではないかと内心期待していました。

 今回、講義の題材として配布されたのは、11月に発売される「文芸三島」に掲載予定の草稿「生誕百年の太宰治と三島、伊豆の生活(その一)」でした。

中尾氏によれば、三島における太宰治の足跡調査には大変苦労されたようです。

以下、講演内容の要約です。

①著書には書かれていませんでしたが、武郎(たけお)さんなどからの聞き取り調査によると、太宰は昼間は喫茶店に入り浸りで手回しの蓄音機でレコードなどを聴き、夜は武郎さんと馴染みの「江戸一」に飲みに行っていたようです。

②※相馬正一氏の増補「若き日の太宰治(津軽書房)」にも掲載されている補稿の三島における同行調査にも触れ、武郎(たけお)さんは「最初のうちは、中々、お話をしていただけなかった。」と述懐しておられました。
 訪問して3回目の時、やっとお話が聞けたそうです。武郎さん自身、太宰との思い出については、世間で言われているようなこととは別に特別な思いがあり、また明治生まれの気骨な気質がそうさせていたのでしょうか。
 わたしも増補「若き日の太宰治(津軽書房)」を拝読しましたが、相馬先生のご努力には敬服します。

※「相馬 正一(そうま・しょういち)

 昭和4年(1929)青森県に生まれる。弘前大学卒業。弘前大学非常勤講師、上越教育大学教授、岐阜女子大学教授を歴任。現在、岐阜女子大学名誉教授。日本近・現代文学専攻。主な著書に『若き日の太宰治』『評伝太宰治』『井伏鱒二の軌跡』『若き日の坂口安吾』『太宰治と井伏鱒二』『国家と個人』(人文書館)など。」(「有限会社 人文書館」HPより引用)

③当時の「ララ洋菓子店」について「まだ洋菓子に馴染みがない時代だったので、お客としては三島の芸妓衆とその旦那衆が通うくらいで大変だったと思います。」と話しておられました。

軽妙なトークで、ところどころユーモアを交えたお話は、会場でも笑いを誘っていました。

中盤、中尾氏自ら「満願」を朗読されます。

そこで、「満願」に登場してくる産婦人科の医師について、

中尾氏の見解としては、「今井産婦人科医院の今井直氏ではないか。」とのこと。

①当時、病院長として勤務していた「三島社会保険病院」に行き、今井先生の書かれたカルテを探したそうですが見つからなかったようです。先生が亡くなった後、奥様は熱海に移られ、その後、新潟に帰られたそうです。そこで、新潟にいる今井先生の姪御さんにもお会いして色々とお話を伺ったそうです。

途中、10分間の休憩を挟み、

①太宰は昭和2年、旧制弘前高等学校時代に「近松門左衛門」や「泉鏡花」を熱心に勉強していたようです。(私は、このことが後々の「情死」に影響していくと考えています。)

その他、

「太宰は三島に来た時は、津島修治で通していた。」ことや「太宰は三島に来た時に内縁の妻だった小山初代をなぜ連れてこなかったのか?」など、まだまだ解明されていない疑問などもお話されていました。

 最後に「三島における太宰の足跡」について、中尾氏は、調査した内容で未発表のものが多々あり、できれば、あと一冊出版したいとおっしゃっていました。緻密な取材に裏付けされた内容で真実がヒシヒシと感じられる90分でした。

午後3時32分、沢山の拍手のうちに「文学講座」は無事終了しました。

講演終了後、まだ時間があったのでやり残しの資料調査をすべく1階の図書館に行きました。

 図書館を後にしたのは日も落ちかけの午後5時頃、西の空を見てみると、まだ低く垂れ込める雲に夕陽が反射して赤く染まっていました。
 

〇三島市は文教都市としても有名なところです。

 戦後、「野戦重砲兵連隊」無き後、広大な跡地には「三島市立北小学校」「三島市立北中学校」をはじめ「静岡県立三島北高等学校(文教町)」「日本大学三島キャンパス(文教町)」「東海旅客鉄道(JR東海)三島社員研修センター(文教町)」が出来ました。また隣接して「放送大学静岡学習センター(静岡県立三島長陵高校2階)」「東レ総合研修センター(末広町)」など数々の教育施設があり、現在も平成22年4月開学予定の「順天堂大学保健看護学部」の「三島キャンパス(三島市大宮町3丁目)」が建設中です。
 また教育関連企業として小・中・高校生の学習塾や大学受験の通信添削で有名な「株式会社Z会(旧(株)増進会出版社)文教町ビル(文教町)」などがあります。このような沢山の教育施設のある「三島市」は、まさしく「文教都市」と言えます。


太宰治が小説執筆の為に滞在していた昭和9年(1934年)三島町ではちょっとしたブームが巻き起こっていました。

それは「農兵節」です。 

「富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧がながい
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ 御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ 御客おこればノーエ 御客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止る
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける」(「三島農兵節普及会」資料より引用)

これは有名な「農兵節」の歌詞です。

 昭和9年2月に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコードが発売され、瞬く間にヒットしラジオでも放送されたようです。
 当然、ご当地である三島町内では、祭典はもちろん料亭の宴席などいたるところで歌われていたことでしょう。
 滞在中、毎夜、坂部武郎さんを連れ立って飲みに行っていた太宰も一度は聞いていたことだと思います。

 そんな「農兵節」ですが、歌詞に出てくる「三島女郎衆」が少し気になっていた私は追加調査してみることにしました。

〇「三島女郎衆」の起源について

「天正十八年三月豊臣秀吉が小田原北條氏攻撃に際しては将兵の休養に女を与えて慰安したと伝えられているので、売笑婦の数もおびただしいものであったに相違ない。こうした女は将兵に春を売る目的のために遠州以遠の地、または京大阪附近の売笑婦が大挙動員されたようである。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)

「特に将兵の好んで賞美した者は相模女と安房女であった。伊豆の女は概して浮気風であるが、安房女は腰のバネがよく、相模女に至っては従順でしかも男の堪能するまで務め上げるという積極性と魅力とに富んでいる。だから、江戸時代になっても三島の宿場女郎には比較的安房と相模出生の女が多かった。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)

とあります。

「農兵節」でも歌われている江戸時代から続く「三島女郎衆」の在籍していた「飯盛旅籠」(その後、明治政府の取締まりにより「貸座敷業者」に変容していきます。)が、大正末期、取締っていた内務省の新しい方針により、風紀上の理由から街道での営業が出来なくなってしまいます。
 そこで、明治中期以降、街道沿いで営業していた「花本」「宝来」「中川」「尾張」「稲妻」「千歳」「井桁」「万字(後に万寿と改称)」「鳴海」「清水」の10軒は、三島における実力者でもあった「稲妻楼」の発起により「三島遊廓」を設立することになります。
 しかし、新しい移転先の土地買収などに多額の資金を必要としたため、いくつかの業者はやむなく廃業することとなり、最終的には「稲妻」「尾張」「万寿」「井桁」「新喜」の5軒で営業することになります。
 新たな移転先には、宿場から離れていて風紀上もっとも影響が少ない街道の西南に位置する「三島新地(茅町)(現、三島市清住町近辺)」が選ばれ,大正14年(1925年)「三島遊廓」を形成して営業を開始します。

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「三島遊廓 萬字樓」(1932年・昭和7年)(「ふり返る20世紀-三島100年の証言-」(三島市郷土資料館)から引用)

 私も跡地に伺って周辺を散策しましたが、現在は静寂に包まれた住宅街で隣接する駿東郡清水町との境界線でもある「境川」があり、川のせせらぎと鳥の囀りが響き渡る良いところです。
 太宰が三島に滞在していた頃は、夜ともなると近隣の旦那衆や野戦重砲兵連隊の兵隊さんで、かなり賑わっていたことでしょう。

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「跡地の横にある境川」(2009年10月撮影)

 文献にもあるように「農兵節」の歌詞にも出てくる「三島女郎衆」が人気が高かったのは、「安土桃山時代(天正十八(1590)年)」以降、この地に辿りついたそれぞれ出身地の違う女性たち(「身体的に魅力のあった安房の女性」「ある時は従順な積極性と魅力とに富んでいた相模の女性」「曽根崎心中にも代表される情の深い関西の女性」「奥ゆかしい京の雅さを持った女性」)など、それぞれの要素がお互いに融合する形で、時代を経て江戸時代後期には「三島女郎衆」としての原型が出来あがったのではないでしょうか。

 そんな事を思いつつ、最後に今回、調査した文献(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編))の中に「宿場女郎の墓」の写真が掲載されていましたので御供養する意味で、そのお寺にお邪魔することにしました。
 写真には「圓明寺(えんみょうじ)」と書いてありましたので、地図を参照してみると旧東海道から北に1本通っている通称「鎌倉古道」沿いにあることが分かりました。

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「旧鎌倉古道から圓明寺(えんみょうじ)入口を見たところ」(2009年10月撮影)

その「圓明寺(現、三島市芝本町)」は、通りから少し奥まったところにありました。

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「圓明寺の参道」(2009年10月撮影)

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「圓明寺の山門」(2009年10月撮影)

本堂にお伺いしたら返答がありませんでしたので自宅の方へお伺いしました。

筆者「(インターホーンを押して)すみません。三島の歴史について取材している者ですが・・・。」
女性「は~い。(ドア)開いてますよ。」
筆者「すみません。」

 ドアを開けたら、そこには初老のご婦人が居られました。突然の訪問にもかかわらず快く応対していただきました。
 多分、ご住職の奥様だと思いましたが失礼とは思いつつ、早速、「三島市誌(中巻)」「第七節、江戸時代(封建後期) 宿駅と交通」の419ページに掲載されている「第九十七図 宿場女郎の墓(圓明寺)」の写真のことについてお聞きしたところ、

女性「宿場女郎の墓・・・墓というか無縁仏なんですけど、もう大分、戒名が薄くなってしまって・・・お宅さまのように前に2~3人の方が(取材に)みえられましたよ。」

女性「ちょっと、待ってくださいよ。」

お忙しいにもかかわらずご丁寧にも案内してくださいました。

案内された墓石は文献で見たのとは違っていました。

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「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)

筆者「三島市誌の写真では、三つお墓が並んで写っていましたが・・・。」

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「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)

掲載された写真の撮影後、境内が整理され今では合同の永代供養塔として供養されているようです。

 お忙しいのに、わざわざ案内していただいて、当時、太宰が味わった三島の人たちの優しさに少し触れられたような気がしました。

 次回は、「小説「満願」の主人公とされる今井産婦人科医院長と三島芸妓さんについて」の予定です。「三島文学散歩(中尾勇著)」によれば主人公の「まち医者」が、もし、今井先生だとしたら・・・滞在期間中に料亭の宴席に招待されている可能性があります。




参考資料

「農兵節」

「白滝公園内に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞が刻まれています。「富士の白雪 朝日に溶て、三島女臈衆の化粧水」昭和7年(1932)三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。
 農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久2年(1862)に横浜で作られた野毛山節(ノーエ節)が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。
 その宣伝方法は、東京・大阪などへ赴き、「農兵節」の幟を立て、源太郎は農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用して大・小刀を腰に差し、近在の若者達と共に農兵踊りを披露し人目を引きました。一方、昭和9年に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせています。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になりました。」(「三島市役所HPより引用)


「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」(整理した資料から2) 南部孝一

 先日来から「取材日記」という形で、太宰治の「三島」における足跡をご紹介しています。
ここで、もう一度、確認しておかなければなならないのは、三島における太宰治の足跡について、今までなされてこなった事柄について調査し、当時の太宰治の息づかいを検証することです。

「太宰が郷里の四姉に宛てた絵葉書は、何処で投函されたのか?」

太宰は、三島滞在期間中に郷里の四姉に絵葉書を宛てています。

静岡県三島坂部武郎方より青森市浪打六二〇 小館京あて(昭和9年8月14日付)

「姉上様 こちらへ来ましてから、もう半月、たちます。勉強も、ひとまずかたづきましたから、これから毎日自転車で沼津の海岸へでも行き水を浴びようかとも考えています。ここから沼津まで約一里弱です。三島の水は冷たくて、とてもはいれません。あすから、三島大社のおまつりで、提灯をさげています。大蛇の見せ物もあるよし。」(「愛と苦悩の手紙(太宰治、亀井勝一郎編)」(「角川文庫クラシックス」より引用)

※小館京・・・太宰治(津島修治)の姉、小館貞一氏に嫁ぎました。

 実物を確認したいと調査しましたら絵葉書は「青森県立美術館」で開催された「太宰治と美術 故郷と自画像」展(2009年7月11日(土)~9月6日(日))で展示されていたようです。「青森県立美術館」のHPで発表されているプレスリリースの中には実物が掲載されていますが鮮明ではありません。

 そんな時、「本町タワービル(三島市本町)(21階建て)」の4階にある「三島市民活動センター(三島市の施設)」にて、企画展「太宰治と三島」が開催されていて、そこにレプリカが展示されていると聞き、早速、訪問しました。(今、流行の高層型分譲マンションの1階には「マックスバリュEX三島本町店」というスーパーが営業していました。羨ましい・・・)

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「本町タワービル」(2009年10月撮影)

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「マックスバリュEX三島本町店(マックスバリュ東海(株))」(2009年10月撮影)

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「三島市民活動センター内」(2009年10月撮影)

 その絵葉書は「ふるさと歴史文学コーナー」のひとつ「太宰治と三島」に設けられた陳列ケースに拡大した状態でパネルにしてありました。消印は「三島」となっています。

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「企画展「太宰治と三島」のコーナー」(2009年10月撮影)

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「絵葉書の拡大されたレプリカ」(2009年10月撮影)

それでは、一体、この絵葉書はどこで投函されたのでしょうか?


 昭和9年(1934年)当時の「旧東海道沿い(三島市川原ヶ谷付近~三嶋大社~伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅間)」の商店街の現況を調査しましたが、現在のところ見つかっていません。
 そこで、昭和12年(1937年)12月に「三島商業学校(現、三島南高等学校)」の生徒が調査した「六反田、大中、小中、久保町商店街」の復元地図を見てみると、太宰が滞在していた「坂部支店(三島市寿町)」から一番近かったのは「大中島郵便局(現在は、 21階建てのビル本町タワー(本町)」ですが、そこから「三嶋大社」方面に歩いて約200mのところに、本局の「三島郵便局(現在は、三島市役所中央町別館(中央町)同建物には三島中央町郵便局が同居しています)」があります。

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「六反田、大中、小中、久保町商店街 地図(昭和12年12月)(現、広小路から本町まで)」(「三島アメニティ大百科」(グラウンドワ-ク三島編集)(「大通り商店街今昔」P217~P218掲載の地図を筆者が個人名を修正して引用)

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「六反田、大中、小中、久保町商店街 地図(昭和12年12月)(現、本町から中央町まで)」(「三島アメニティ大百科」(グラウンドワ-ク三島編集)(「大通り商店街今昔」P217~P218掲載の地図を筆者が個人名を修正して引用)

 しかし、愛子さんの証言によると「坂部支店」では、お酒の他に切手も扱っていたということなので、滞在費用がなかった太宰は、当然、切手(1銭5厘)を貰い近くの郵便ポストに投函したとも考えられます。このことについては、引き続き調査していきます。

 これは余談になりますが、昭和9年当時の郵便ポストは「丸形庇付(ひさしつき)ポスト」だったようです。

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「静岡市清水区八木間町」(「週刊丸ポスト」HPより引用)

「丸形庇付(ひさしつき)ポスト」

「1901年に登場し試験的に設置された「俵谷式ポスト」「中村式ポスト」が最初の丸型ポストで、材質は鋳鉄。1908年10月、雨よけのために差出口に回転板を取り付けた「回転式ポスト」として制式化された。1912年には、可動部分の故障が多いなどの理由から、回転板を廃し雨よけの庇をつけた「丸型庇付ポスト」が登場し、丸型ポストとしての完成形がほぼ成立した。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)

ちなみに、昭和9年(1934年頃)の物価は、

「牛乳7銭、コーヒー15銭、ラーメン10銭、そば10銭、映画50銭、銭湯7銭、封書3銭、ハガキ1銭5厘、新聞(1ヶ月)90銭、レコード1円20銭、週刊誌13銭」 だったようです。


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