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2009.09.29
「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」取材日記(その1)
「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」取材日記(その1)南部孝一
今年の新年の挨拶で映画化を目標にしてはじめた「闇を裂く道(仮題)」の取材を進めていくうちに興味深い著書に出会いました。
それは、
①「三島文学散歩(中尾勇著)」(静岡新聞社)
②「続・三島文学散歩(中尾勇著)」(静岡新聞社)
「闇を裂く道(吉村昭著)」の舞台となった東海道本線の「丹那隧道(トンネル)」(静岡県熱海市(東口)~静岡県田方郡函南町(西口(大竹口))は難工事の末、昭和9年12月1日に悲願だった「三島駅(当時は、地元では「三島新駅」と読んでいた。)」が開業して三島町民が盛大に祝賀行事を開催しています。
その昭和9年の夏・・・
三島の街には、もうひとつの物語がありました。
昭和の文壇「太宰治」が、8月の初旬から下旬にかけて1ヶ月間滞在していたのです。
三島町民の悲願でもあった「丹那トンネル」の開通により、三島新駅の工事が急ピッチで行われていた最中でした。
太宰治といえば昭和を代表する文壇ですが、資料調査の開始は、すでに昨年(2008年)からはじめていました。
ちょうど今年(2009年)は、太宰治の生誕100年という記念すべき年ということで、映画界でも「斜陽」「パンドラの匣」「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」「人間失格」と4本が製作されています。
先日(現地時間、8月27日)も「第33回モントリオール世界映画祭」のワールド・コンペティション部門に出品されていた、根岸吉太郎監督作「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~(根岸吉太郎監督)」が最優秀監督賞を獲得するなど注目を集めています。
そこで私も「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」と題して、映画化を視野に入れた作品を執筆してみようと考えました。
そんなこともあり、映画「闇を裂く道(仮題)」と平行して取材することとしました。
なぜ「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」という題名にしたのか?
それは、先程も述べましたが、中尾氏の2冊の著書を読み進めるうちに、俳人、小説家、映画俳優・映画監督など多くの文化人が訪れ、その足跡を残していることです。
今回は、三島駅(南口)を出発し、太宰が小説「満願」で描写したであろう「源兵衛川(げんべいかわ)」を巡り「三島梅花藻(ミシマバイカモ)の里」まで散策してみたいと思います。(太宰治の三島における足跡を辿るにあたり、中尾氏の著書を補足するものとして、ネット上で収集した「東京紅團(東京紅団)」の「太宰治を巡って」(三島・三津浜を歩く)を参考にさせていただきました。)
現在、三島市では、観光都市として積極的に観光資源(「街中がせせらぎ事業」)を整備しているようです。行政と市民団体の協働・参画により推進されたものだそうです。市内回遊ルートの中のひとつ「源兵衛川水辺の散歩道」を散策してみたいと思います。
取材日記(その1)
三島駅に降り立ち最初に出迎えてくれるのが「街中がせせらぎ事業」のひとつ、駅前のロータリー。水の仕掛けやら大きな樹木があり、さながら憩いの場所となっているようです。

三島駅南口(ただ、昔の写真で見られる富士山の形を模した三島駅の屋根は、樹木に隠れて全景を見ることはできませんでした。)
ロータリーを抜け駅前のスクランブル交差点を渡り緩やかな下り坂(愛染坂)を下って行きます。

三島駅南口のスクランブル交差点

「愛染坂」前方にみえるのが、「愛染の滝」です。(道を隔てて向って右側には「三島市民文化会館 ゆうゆうホール」があります。
さらに歩いて行くと「三島市立楽寿園」の正門です。


道路を隔てて向い側が「白滝公園」となっています。ガイドブックを見てみると、「三島の湧水」を見ることができる数少ないところのようです。


ここは、太宰が井伏鱒二と歩いた桜川の源流となるところで公園内に点在する富士山の溶岩流で出来たゴツゴツとした溶岩石の隙間から湧水が染み出しているところです。
私が訪れたのは、9月6日(日)でしたが、夏休みが終わっているにもかかわらず、それを惜しむかのように子供たちが歓声をあげて水辺で遊んでいました。
取材中も公園内にある大きなケヤキの木々が木陰を作っているので、そよ風がとても心地良かったです。

「溶岩石の隙間から湧水が染み出しているところ」



「白滝公園から桜川を見たところ」

「白滝公園」を出ると道路の反対側に、大きな「せせらぎ案内看板」があります。
大きな「案内看板」を過ぎると「楽寿園」の南端にあたる道路「小浜のみち」があります。
この道を進んで行くと「楽寿園」の小浜池の南端のところ、太宰が「満願」で描写している「源兵衛川」の源流に辿りつきます。
ここからは、三島市が整備した「せせらぎ事業」のひとつ「源兵衛川プロムナード修景整備事業」の「源兵衛川ロード」の順路に従って巡っていきたいと思います。

「ここが、「源兵衛川」の起点となります。」
それにしても、本当に「せせらぎ」と表現するに相応しい程、澄んだ清流だと思います。日差しが水面に反射してキラキラと輝いていました。
太宰が滞在した当時とは違い人工的な部分があるとしても、そこに流れている清流は、当時と変わらず脈々と流れているのかと思うとロマンを感じますね。



ここでも、子供たちが川に入って水遊びをしていました。川面は、そんなに深くはなく深いところでも踝のところでしょうか。訪問したのが9月初旬ということもあり、最盛期にはもっと水嵩があるのかもしれません。

湧水が豊富に湧き出ていた時代は、生活用水としても利用され一年を通して温度が15度~16度と一定だったので、特に夏の時期は果物や野菜などを冷やしたりしていたそうです。そのことは、
「町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘蛛(くも)の巣のように縦横無尽に残る隈(くま)なく駈けめぐり、清冽の流れの底には水藻(みずも)が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯が出来るのでした。」(「老ハイデルベルヒ」より引用)にも描写されています。
更に巡って行くと中心地のメインストリート(旧東海道)に出ます。(現在は、国道一号線三島バイパスが、遥か南のルートを通っている為、県道になっています。)
現在は、電柱が地中化されスッキリした印象を与えています。ただ、これも時代の流れでしょうか、あちこち定住型の高層マンションが林立して景観が変わってしまっています。東海道の宿場町として栄えていた時代の名残を探してみると、当時の跡地に観光用の案内板があるのみでした。
ここで余談になりますが、三島は「看板建築」の残る数少ない地としても有名のようです。
北伊豆地震により甚大な被害にあい、それまでの瓦屋根の商店が倒壊したため、当時、最先端だった「看板建築」によって再建されたのが今でも残っているようです。(後日、掲載予定です。)
また、取材に戻ります。
「源兵衛川ロード」の順路(三石神社の境内入口)には、ガイドブックでも有名な「桜屋」という鰻のお店があります。私が立ち寄った時間も(お昼時ではありませんでしたが)行列が出来ていて警備員のおじさんが行列を整理していました。境内の入口にお店があるので鰻の焼ける香ばしい匂いが一帯に漂っていました。
この「桜屋」の隣が、直接、小説には出てきませんが、太宰がよく通っていた「ララ洋菓子店」があります。
ここからは、三石神社を抜けて、その先の伊豆箱根鉄道の橋梁の下を潜り歩いていくと、「満願」の舞台となった「今井婦人科医院跡」(現在は川沿いにカフェとその隣には三島中央病院)があります。

「左上は三石神社の時の鐘」

「伊豆箱根鉄道の橋梁の下を流れる源兵衛川」





「清流に群生している三島梅花藻(ミシマバイカモ)」
最後に、「三島梅花藻(ミシマバイカモ)」を保存、育成している「三島梅花藻(ミシマバイカモ)の里」を訪れました。



「三島梅花藻(ミシマバイカモ、Ranunculus nipponicus (Makino) Nakai var. japonicus (Nakai) Hara)は、清流に育つキンポウゲ科の多年草でウマノアシガタ属の水草、バイカモの変種である。
1930年に中井猛之進により三島市楽寿園の小浜ケ池にて発見された。
1950年代中頃に、三島市の繊維産業発達に伴い、地下水が大量に消費され、生息域水源が涸れたり生活排水流入による環境汚染により、一度は絶滅したと考えられた。
自然環境で現存するのは清水町の柿田川のみ。
現在、楽寿園にて見られるこれらの植物は柿田川より移植されている物である。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
ここで、作品のポイントを整理してみたいと思います。
①太宰は、当時、懶惰(らんだ)な東京帝国大学の学生であり相変わらず故郷の青森からの仕送りで生計を立てている状態でした。また、左翼運動に傾倒していたこともあり、一時的な療養の意味もあり友人である坂部武郎宅に滞在して本格的に小説の執筆活動に専念した。
②友人の坂部武郎氏とは、坂部氏が東京に下宿(北芳四郎宅)していたころ知り合い、同じ境遇ということもあり親交が深かった。
③資料によれば、坂部氏は、太宰より2歳年下でしたが、親分肌で面倒見がよく滞在中は親身になって面倒を見ていた。
④地方の田舎町でありながら都会的なセンスの持ち主が多く、坂部氏、気丈な坂部氏の妹、豪傑な町医者、天真爛漫な三島の芸者衆、都会の雰囲気を醸し出している洋菓子店の女将など太宰にとっては違和感なく滞在できた。
⑤大正8年(1919年)「陸軍野戦重砲兵第2連隊」翌、大正9年(1920年)に「陸軍野戦重砲兵第3連隊」が横須賀から移駐してきました。合わせて約3,000余名が近隣に下宿する形でしたので、日曜日になると兵隊さんが街に繰り出して芝居小屋や活動写真館(映画館)は、どこも賑わっていました。太宰が滞在していた昭和9年もかなりの賑わいだったと推測されます。(それに関連した商売が繁栄していました。)創作活動の刺激になった?
⑥清流で育まれた三島の街の人々の心に触れる事により、その当時、荒廃していた太宰の心に一時でも変化をもたらした?(清らかな水の流れに健気に群生している「ミシマバイカモ」(「老ハイデルベルヒ」ではの「清冽の流れの底には水藻(みずも)が青々と生えて」と描写しています。)その白い可憐な花を見て癒されていた?
(その2)へ
今年の新年の挨拶で映画化を目標にしてはじめた「闇を裂く道(仮題)」の取材を進めていくうちに興味深い著書に出会いました。
それは、
①「三島文学散歩(中尾勇著)」(静岡新聞社)
②「続・三島文学散歩(中尾勇著)」(静岡新聞社)
「闇を裂く道(吉村昭著)」の舞台となった東海道本線の「丹那隧道(トンネル)」(静岡県熱海市(東口)~静岡県田方郡函南町(西口(大竹口))は難工事の末、昭和9年12月1日に悲願だった「三島駅(当時は、地元では「三島新駅」と読んでいた。)」が開業して三島町民が盛大に祝賀行事を開催しています。
その昭和9年の夏・・・
三島の街には、もうひとつの物語がありました。
昭和の文壇「太宰治」が、8月の初旬から下旬にかけて1ヶ月間滞在していたのです。
三島町民の悲願でもあった「丹那トンネル」の開通により、三島新駅の工事が急ピッチで行われていた最中でした。
太宰治といえば昭和を代表する文壇ですが、資料調査の開始は、すでに昨年(2008年)からはじめていました。
ちょうど今年(2009年)は、太宰治の生誕100年という記念すべき年ということで、映画界でも「斜陽」「パンドラの匣」「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」「人間失格」と4本が製作されています。
先日(現地時間、8月27日)も「第33回モントリオール世界映画祭」のワールド・コンペティション部門に出品されていた、根岸吉太郎監督作「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~(根岸吉太郎監督)」が最優秀監督賞を獲得するなど注目を集めています。
そこで私も「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」と題して、映画化を視野に入れた作品を執筆してみようと考えました。
そんなこともあり、映画「闇を裂く道(仮題)」と平行して取材することとしました。
なぜ「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」という題名にしたのか?
それは、先程も述べましたが、中尾氏の2冊の著書を読み進めるうちに、俳人、小説家、映画俳優・映画監督など多くの文化人が訪れ、その足跡を残していることです。
今回は、三島駅(南口)を出発し、太宰が小説「満願」で描写したであろう「源兵衛川(げんべいかわ)」を巡り「三島梅花藻(ミシマバイカモ)の里」まで散策してみたいと思います。(太宰治の三島における足跡を辿るにあたり、中尾氏の著書を補足するものとして、ネット上で収集した「東京紅團(東京紅団)」の「太宰治を巡って」(三島・三津浜を歩く)を参考にさせていただきました。)
現在、三島市では、観光都市として積極的に観光資源(「街中がせせらぎ事業」)を整備しているようです。行政と市民団体の協働・参画により推進されたものだそうです。市内回遊ルートの中のひとつ「源兵衛川水辺の散歩道」を散策してみたいと思います。
取材日記(その1)
三島駅に降り立ち最初に出迎えてくれるのが「街中がせせらぎ事業」のひとつ、駅前のロータリー。水の仕掛けやら大きな樹木があり、さながら憩いの場所となっているようです。

三島駅南口(ただ、昔の写真で見られる富士山の形を模した三島駅の屋根は、樹木に隠れて全景を見ることはできませんでした。)
ロータリーを抜け駅前のスクランブル交差点を渡り緩やかな下り坂(愛染坂)を下って行きます。

三島駅南口のスクランブル交差点

「愛染坂」前方にみえるのが、「愛染の滝」です。(道を隔てて向って右側には「三島市民文化会館 ゆうゆうホール」があります。
さらに歩いて行くと「三島市立楽寿園」の正門です。


道路を隔てて向い側が「白滝公園」となっています。ガイドブックを見てみると、「三島の湧水」を見ることができる数少ないところのようです。


ここは、太宰が井伏鱒二と歩いた桜川の源流となるところで公園内に点在する富士山の溶岩流で出来たゴツゴツとした溶岩石の隙間から湧水が染み出しているところです。
私が訪れたのは、9月6日(日)でしたが、夏休みが終わっているにもかかわらず、それを惜しむかのように子供たちが歓声をあげて水辺で遊んでいました。
取材中も公園内にある大きなケヤキの木々が木陰を作っているので、そよ風がとても心地良かったです。

「溶岩石の隙間から湧水が染み出しているところ」



「白滝公園から桜川を見たところ」

「白滝公園」を出ると道路の反対側に、大きな「せせらぎ案内看板」があります。
大きな「案内看板」を過ぎると「楽寿園」の南端にあたる道路「小浜のみち」があります。
この道を進んで行くと「楽寿園」の小浜池の南端のところ、太宰が「満願」で描写している「源兵衛川」の源流に辿りつきます。
ここからは、三島市が整備した「せせらぎ事業」のひとつ「源兵衛川プロムナード修景整備事業」の「源兵衛川ロード」の順路に従って巡っていきたいと思います。

「ここが、「源兵衛川」の起点となります。」
それにしても、本当に「せせらぎ」と表現するに相応しい程、澄んだ清流だと思います。日差しが水面に反射してキラキラと輝いていました。
太宰が滞在した当時とは違い人工的な部分があるとしても、そこに流れている清流は、当時と変わらず脈々と流れているのかと思うとロマンを感じますね。



ここでも、子供たちが川に入って水遊びをしていました。川面は、そんなに深くはなく深いところでも踝のところでしょうか。訪問したのが9月初旬ということもあり、最盛期にはもっと水嵩があるのかもしれません。

湧水が豊富に湧き出ていた時代は、生活用水としても利用され一年を通して温度が15度~16度と一定だったので、特に夏の時期は果物や野菜などを冷やしたりしていたそうです。そのことは、
「町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘蛛(くも)の巣のように縦横無尽に残る隈(くま)なく駈けめぐり、清冽の流れの底には水藻(みずも)が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯が出来るのでした。」(「老ハイデルベルヒ」より引用)にも描写されています。
更に巡って行くと中心地のメインストリート(旧東海道)に出ます。(現在は、国道一号線三島バイパスが、遥か南のルートを通っている為、県道になっています。)
現在は、電柱が地中化されスッキリした印象を与えています。ただ、これも時代の流れでしょうか、あちこち定住型の高層マンションが林立して景観が変わってしまっています。東海道の宿場町として栄えていた時代の名残を探してみると、当時の跡地に観光用の案内板があるのみでした。
ここで余談になりますが、三島は「看板建築」の残る数少ない地としても有名のようです。
北伊豆地震により甚大な被害にあい、それまでの瓦屋根の商店が倒壊したため、当時、最先端だった「看板建築」によって再建されたのが今でも残っているようです。(後日、掲載予定です。)
また、取材に戻ります。
「源兵衛川ロード」の順路(三石神社の境内入口)には、ガイドブックでも有名な「桜屋」という鰻のお店があります。私が立ち寄った時間も(お昼時ではありませんでしたが)行列が出来ていて警備員のおじさんが行列を整理していました。境内の入口にお店があるので鰻の焼ける香ばしい匂いが一帯に漂っていました。
この「桜屋」の隣が、直接、小説には出てきませんが、太宰がよく通っていた「ララ洋菓子店」があります。
ここからは、三石神社を抜けて、その先の伊豆箱根鉄道の橋梁の下を潜り歩いていくと、「満願」の舞台となった「今井婦人科医院跡」(現在は川沿いにカフェとその隣には三島中央病院)があります。

「左上は三石神社の時の鐘」

「伊豆箱根鉄道の橋梁の下を流れる源兵衛川」





「清流に群生している三島梅花藻(ミシマバイカモ)」
最後に、「三島梅花藻(ミシマバイカモ)」を保存、育成している「三島梅花藻(ミシマバイカモ)の里」を訪れました。



「三島梅花藻(ミシマバイカモ、Ranunculus nipponicus (Makino) Nakai var. japonicus (Nakai) Hara)は、清流に育つキンポウゲ科の多年草でウマノアシガタ属の水草、バイカモの変種である。
1930年に中井猛之進により三島市楽寿園の小浜ケ池にて発見された。
1950年代中頃に、三島市の繊維産業発達に伴い、地下水が大量に消費され、生息域水源が涸れたり生活排水流入による環境汚染により、一度は絶滅したと考えられた。
自然環境で現存するのは清水町の柿田川のみ。
現在、楽寿園にて見られるこれらの植物は柿田川より移植されている物である。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
ここで、作品のポイントを整理してみたいと思います。
①太宰は、当時、懶惰(らんだ)な東京帝国大学の学生であり相変わらず故郷の青森からの仕送りで生計を立てている状態でした。また、左翼運動に傾倒していたこともあり、一時的な療養の意味もあり友人である坂部武郎宅に滞在して本格的に小説の執筆活動に専念した。
②友人の坂部武郎氏とは、坂部氏が東京に下宿(北芳四郎宅)していたころ知り合い、同じ境遇ということもあり親交が深かった。
③資料によれば、坂部氏は、太宰より2歳年下でしたが、親分肌で面倒見がよく滞在中は親身になって面倒を見ていた。
④地方の田舎町でありながら都会的なセンスの持ち主が多く、坂部氏、気丈な坂部氏の妹、豪傑な町医者、天真爛漫な三島の芸者衆、都会の雰囲気を醸し出している洋菓子店の女将など太宰にとっては違和感なく滞在できた。
⑤大正8年(1919年)「陸軍野戦重砲兵第2連隊」翌、大正9年(1920年)に「陸軍野戦重砲兵第3連隊」が横須賀から移駐してきました。合わせて約3,000余名が近隣に下宿する形でしたので、日曜日になると兵隊さんが街に繰り出して芝居小屋や活動写真館(映画館)は、どこも賑わっていました。太宰が滞在していた昭和9年もかなりの賑わいだったと推測されます。(それに関連した商売が繁栄していました。)創作活動の刺激になった?
⑥清流で育まれた三島の街の人々の心に触れる事により、その当時、荒廃していた太宰の心に一時でも変化をもたらした?(清らかな水の流れに健気に群生している「ミシマバイカモ」(「老ハイデルベルヒ」ではの「清冽の流れの底には水藻(みずも)が青々と生えて」と描写しています。)その白い可憐な花を見て癒されていた?
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