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太宰治が小説執筆の為に滞在していた昭和9年(1934年)三島町ではちょっとしたブームが巻き起こっていました。

それは「農兵節」です。 

「富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧がながい
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ 御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ 御客おこればノーエ 御客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止る
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける」(「三島農兵節普及会」資料より引用)

これは有名な「農兵節」の歌詞です。

 昭和9年2月に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコードが発売され、瞬く間にヒットしラジオでも放送されたようです。
 当然、ご当地である三島町内では、祭典はもちろん料亭の宴席などいたるところで歌われていたことでしょう。
 滞在中、毎夜、坂部武郎さんを連れ立って飲みに行っていた太宰も一度は聞いていたことだと思います。

 そんな「農兵節」ですが、歌詞に出てくる「三島女郎衆」が少し気になっていた私は追加調査してみることにしました。

〇「三島女郎衆」の起源について

「天正十八年三月豊臣秀吉が小田原北條氏攻撃に際しては将兵の休養に女を与えて慰安したと伝えられているので、売笑婦の数もおびただしいものであったに相違ない。こうした女は将兵に春を売る目的のために遠州以遠の地、または京大阪附近の売笑婦が大挙動員されたようである。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)

「特に将兵の好んで賞美した者は相模女と安房女であった。伊豆の女は概して浮気風であるが、安房女は腰のバネがよく、相模女に至っては従順でしかも男の堪能するまで務め上げるという積極性と魅力とに富んでいる。だから、江戸時代になっても三島の宿場女郎には比較的安房と相模出生の女が多かった。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)

とあります。

「農兵節」でも歌われている江戸時代から続く「三島女郎衆」の在籍していた「飯盛旅籠」(その後、明治政府の取締まりにより「貸座敷業者」に変容していきます。)が、大正末期、取締っていた内務省の新しい方針により、風紀上の理由から街道での営業が出来なくなってしまいます。
 そこで、明治中期以降、街道沿いで営業していた「花本」「宝来」「中川」「尾張」「稲妻」「千歳」「井桁」「万字(後に万寿と改称)」「鳴海」「清水」の10軒は、三島における実力者でもあった「稲妻楼」の発起により「三島遊廓」を設立することになります。
 しかし、新しい移転先の土地買収などに多額の資金を必要としたため、いくつかの業者はやむなく廃業することとなり、最終的には「稲妻」「尾張」「万寿」「井桁」「新喜」の5軒で営業することになります。
 新たな移転先には、宿場から離れていて風紀上もっとも影響が少ない街道の西南に位置する「三島新地(茅町)(現、三島市清住町近辺)」が選ばれ,大正14年(1925年)「三島遊廓」を形成して営業を開始します。

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「三島遊廓 萬字樓」(1932年・昭和7年)(「ふり返る20世紀-三島100年の証言-」(三島市郷土資料館)から引用)

 私も跡地に伺って周辺を散策しましたが、現在は静寂に包まれた住宅街で隣接する駿東郡清水町との境界線でもある「境川」があり、川のせせらぎと鳥の囀りが響き渡る良いところです。
 太宰が三島に滞在していた頃は、夜ともなると近隣の旦那衆や野戦重砲兵連隊の兵隊さんで、かなり賑わっていたことでしょう。

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「跡地の横にある境川」(2009年10月撮影)

 文献にもあるように「農兵節」の歌詞にも出てくる「三島女郎衆」が人気が高かったのは、「安土桃山時代(天正十八(1590)年)」以降、この地に辿りついたそれぞれ出身地の違う女性たち(「身体的に魅力のあった安房の女性」「ある時は従順な積極性と魅力とに富んでいた相模の女性」「曽根崎心中にも代表される情の深い関西の女性」「奥ゆかしい京の雅さを持った女性」)など、それぞれの要素がお互いに融合する形で、時代を経て江戸時代後期には「三島女郎衆」としての原型が出来あがったのではないでしょうか。

 そんな事を思いつつ、最後に今回、調査した文献(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編))の中に「宿場女郎の墓」の写真が掲載されていましたので御供養する意味で、そのお寺にお邪魔することにしました。
 写真には「圓明寺(えんみょうじ)」と書いてありましたので、地図を参照してみると旧東海道から北に1本通っている通称「鎌倉古道」沿いにあることが分かりました。

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「旧鎌倉古道から圓明寺(えんみょうじ)入口を見たところ」(2009年10月撮影)

その「圓明寺(現、三島市芝本町)」は、通りから少し奥まったところにありました。

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「圓明寺の参道」(2009年10月撮影)

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「圓明寺の山門」(2009年10月撮影)

本堂にお伺いしたら返答がありませんでしたので自宅の方へお伺いしました。

筆者「(インターホーンを押して)すみません。三島の歴史について取材している者ですが・・・。」
女性「は~い。(ドア)開いてますよ。」
筆者「すみません。」

 ドアを開けたら、そこには初老のご婦人が居られました。突然の訪問にもかかわらず快く応対していただきました。
 多分、ご住職の奥様だと思いましたが失礼とは思いつつ、早速、「三島市誌(中巻)」「第七節、江戸時代(封建後期) 宿駅と交通」の419ページに掲載されている「第九十七図 宿場女郎の墓(圓明寺)」の写真のことについてお聞きしたところ、

女性「宿場女郎の墓・・・墓というか無縁仏なんですけど、もう大分、戒名が薄くなってしまって・・・お宅さまのように前に2~3人の方が(取材に)みえられましたよ。」

女性「ちょっと、待ってくださいよ。」

お忙しいにもかかわらずご丁寧にも案内してくださいました。

案内された墓石は文献で見たのとは違っていました。

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「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)

筆者「三島市誌の写真では、三つお墓が並んで写っていましたが・・・。」

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「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)

掲載された写真の撮影後、境内が整理され今では合同の永代供養塔として供養されているようです。

 お忙しいのに、わざわざ案内していただいて、当時、太宰が味わった三島の人たちの優しさに少し触れられたような気がしました。

 次回は、「小説「満願」の主人公とされる今井産婦人科医院長と三島芸妓さんについて」の予定です。「三島文学散歩(中尾勇著)」によれば主人公の「まち医者」が、もし、今井先生だとしたら・・・滞在期間中に料亭の宴席に招待されている可能性があります。




参考資料

「農兵節」

「白滝公園内に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞が刻まれています。「富士の白雪 朝日に溶て、三島女臈衆の化粧水」昭和7年(1932)三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。
 農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久2年(1862)に横浜で作られた野毛山節(ノーエ節)が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。
 その宣伝方法は、東京・大阪などへ赴き、「農兵節」の幟を立て、源太郎は農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用して大・小刀を腰に差し、近在の若者達と共に農兵踊りを披露し人目を引きました。一方、昭和9年に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせています。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になりました。」(「三島市役所HPより引用)


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「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」(整理した資料から2) 南部孝一

 先日来から「取材日記」という形で、太宰治の「三島」における足跡をご紹介しています。
ここで、もう一度、確認しておかなければなならないのは、三島における太宰治の足跡について、今までなされてこなった事柄について調査し、当時の太宰治の息づかいを検証することです。

「太宰が郷里の四姉に宛てた絵葉書は、何処で投函されたのか?」

太宰は、三島滞在期間中に郷里の四姉に絵葉書を宛てています。

静岡県三島坂部武郎方より青森市浪打六二〇 小館京あて(昭和9年8月14日付)

「姉上様 こちらへ来ましてから、もう半月、たちます。勉強も、ひとまずかたづきましたから、これから毎日自転車で沼津の海岸へでも行き水を浴びようかとも考えています。ここから沼津まで約一里弱です。三島の水は冷たくて、とてもはいれません。あすから、三島大社のおまつりで、提灯をさげています。大蛇の見せ物もあるよし。」(「愛と苦悩の手紙(太宰治、亀井勝一郎編)」(「角川文庫クラシックス」より引用)

※小館京・・・太宰治(津島修治)の姉、小館貞一氏に嫁ぎました。

 実物を確認したいと調査しましたら絵葉書は「青森県立美術館」で開催された「太宰治と美術 故郷と自画像」展(2009年7月11日(土)~9月6日(日))で展示されていたようです。「青森県立美術館」のHPで発表されているプレスリリースの中には実物が掲載されていますが鮮明ではありません。

 そんな時、「本町タワービル(三島市本町)(21階建て)」の4階にある「三島市民活動センター(三島市の施設)」にて、企画展「太宰治と三島」が開催されていて、そこにレプリカが展示されていると聞き、早速、訪問しました。(今、流行の高層型分譲マンションの1階には「マックスバリュEX三島本町店」というスーパーが営業していました。羨ましい・・・)

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「本町タワービル」(2009年10月撮影)

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「マックスバリュEX三島本町店(マックスバリュ東海(株))」(2009年10月撮影)

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「三島市民活動センター内」(2009年10月撮影)

 その絵葉書は「ふるさと歴史文学コーナー」のひとつ「太宰治と三島」に設けられた陳列ケースに拡大した状態でパネルにしてありました。消印は「三島」となっています。

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「企画展「太宰治と三島」のコーナー」(2009年10月撮影)

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「絵葉書の拡大されたレプリカ」(2009年10月撮影)

それでは、一体、この絵葉書はどこで投函されたのでしょうか?


 昭和9年(1934年)当時の「旧東海道沿い(三島市川原ヶ谷付近~三嶋大社~伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅間)」の商店街の現況を調査しましたが、現在のところ見つかっていません。
 そこで、昭和12年(1937年)12月に「三島商業学校(現、三島南高等学校)」の生徒が調査した「六反田、大中、小中、久保町商店街」の復元地図を見てみると、太宰が滞在していた「坂部支店(三島市寿町)」から一番近かったのは「大中島郵便局(現在は、 21階建てのビル本町タワー(本町)」ですが、そこから「三嶋大社」方面に歩いて約200mのところに、本局の「三島郵便局(現在は、三島市役所中央町別館(中央町)同建物には三島中央町郵便局が同居しています)」があります。

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「六反田、大中、小中、久保町商店街 地図(昭和12年12月)(現、広小路から本町まで)」(「三島アメニティ大百科」(グラウンドワ-ク三島編集)(「大通り商店街今昔」P217~P218掲載の地図を筆者が個人名を修正して引用)

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「六反田、大中、小中、久保町商店街 地図(昭和12年12月)(現、本町から中央町まで)」(「三島アメニティ大百科」(グラウンドワ-ク三島編集)(「大通り商店街今昔」P217~P218掲載の地図を筆者が個人名を修正して引用)

 しかし、愛子さんの証言によると「坂部支店」では、お酒の他に切手も扱っていたということなので、滞在費用がなかった太宰は、当然、切手(1銭5厘)を貰い近くの郵便ポストに投函したとも考えられます。このことについては、引き続き調査していきます。

 これは余談になりますが、昭和9年当時の郵便ポストは「丸形庇付(ひさしつき)ポスト」だったようです。

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「静岡市清水区八木間町」(「週刊丸ポスト」HPより引用)

「丸形庇付(ひさしつき)ポスト」

「1901年に登場し試験的に設置された「俵谷式ポスト」「中村式ポスト」が最初の丸型ポストで、材質は鋳鉄。1908年10月、雨よけのために差出口に回転板を取り付けた「回転式ポスト」として制式化された。1912年には、可動部分の故障が多いなどの理由から、回転板を廃し雨よけの庇をつけた「丸型庇付ポスト」が登場し、丸型ポストとしての完成形がほぼ成立した。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)

ちなみに、昭和9年(1934年頃)の物価は、

「牛乳7銭、コーヒー15銭、ラーメン10銭、そば10銭、映画50銭、銭湯7銭、封書3銭、ハガキ1銭5厘、新聞(1ヶ月)90銭、レコード1円20銭、週刊誌13銭」 だったようです。


私は「文筆」を生業(なりわい)としている訳ではありません。ですから本業の合間を縫っての調査になりますので自ずと制約があります。
 今回は、中尾氏の「三島文学散歩(静岡新聞社)」「続・三島文学散歩(静岡新聞社)」の記述に則り調査を行うと同時に文献での裏付けも行いました。
 
①「三島市立図書館本館で文献を調査しました。」 

 三島駅南口より徒歩8分のところに「三島市立図書館」はあります。

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「三島市立図書館」入口(2009年9月撮影)

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「三島市立図書館」全景(2009年9月撮影)

 道路から見ると途轍もなく大きな建物なのでびっくりしましたが、どうやら図書館は「三島市民生涯学習センター(いきいきホール)」の1階・2階のようです。
 1階の玄関を入っていくと正面に図書館の入口があります。入ってみて、まず、思ったのは「とにかく広い」。人口11万人の市立図書館としては施設が充実しているんじゃないでしょうか。

 すでに図書館のHPで下調べはしてありましたので、調査・研究のための参考資料及び三島市・に関する郷土資料がある「レファレンスコーナー」に向いました。
 一般図書コーナーとは別に、一番奥がレファレンスコーナーになっているようです。(入口にはセキュリティシステムがありました。大切な蔵書が盗難に合わない為のものでしょうか。)
 レファレンスカウンターで座席番号をもらい、早速、調査開始です。
 すでに該当する項目は図書館のHP「蔵書検索」で調べてありましたのでお目当ての蔵書はすぐに見つかりました。
 短時間で、調査を終了しなくてはなりませんので、該当する蔵書を片っ端から集めてきて、該当する箇所をコピーすることにしました。
 著作権法により「調査目的」のみコピーが許可されているようです。(著作権法第31条の範囲内では、個人の方が調査研究の目的で、図書館の著作物の一部分を一部コピーすることができます。一部分とは、少なくとも著作物全体の半分以下となります。)(「三島市立図書館HP Q&Aより引用)
 早速、レファレンスカウンターで「複写等申込書」に記入しました。(住所、氏名、コピーする「著書名」とコピーするページ箇所を記入します。)
 最後にコピーした枚数を記入して係員に提出します。係員の方は手際よくページ箇所と枚数を確認していました。


②「三島市立公園「楽寿園」に入園して調査をしました。」

「どうして楽寿園なのか?」といいますと、太宰が描写している清流の源(みなもと)である「源兵衛川」の源流の「小浜池」が園内にあるのと「三島溶岩流」と「三島湧水」のメカニズムを知ることです。
 また、「三島市立図書館」の蔵書の中に「三島郷土資料館(楽寿園内)」の編集、発行というものが多く、図書館では得られなかった情報があるのではないかと思いました。

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三島市立公園「楽寿園」正門入口(2009年9月撮影)

 正門の受付所で大人(満15歳以上)入園料300円を払い、一歩、園内に入ってみると市街地とは思えない「静寂」がありました。自動車の騒音も聞こえません。生い茂る樹木の木漏れ日と鳥の囀り。

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「園内に入ったところ」(2009年9月撮影)

 富士山の噴火で流れ出た溶岩(三島溶岩流)の上に、実生(みしょう)した樹木の生命力には驚かされます。※「実生(みしょう)」種子から発芽して生じた植物。挿し木・取り木に対していう。

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「三島溶岩流とその上に実生した樹木」(2009年9月撮影)

 暫く歩いていくと、突然、森が開けます。そこに見えたのが「小浜池」でした。
 私がお邪魔したのは9月の初旬でしたが池には湧水はありませんでした。資料を見ると昭和30年頃を境に、毎年、湧水量が減少し池に湧水が溜まるのは珍しいようです。

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「湧水が枯れた状態の小浜池全景」(2009年9月撮影)

 「小浜池」をあとに、暫く歩いて行くと、お目当ての「郷土資料館」があります。

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「三島市郷土資料館」(2009年9月撮影)

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「静態保存されている蒸気機関車C58型」(2009年9月撮影)

(資料館の斜め前には、蒸気機関車の「SL C58型」が展示してあり運転席にも入れることができるようです。)
 3階建ての立派な建物です。1階は「企画展示室」で年間に数回、色々なテーマに沿った企画展示をしているようです。2階、3階は常設展示室ということで三島にまつわる歴史と生活文化の展示でした。一通り展示品を見学してから、ここにしかないという刊行図書を購入しました。

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「常設展示室」のコーナー(2009年9月撮影)

 これで今回の調査は終了です。閉園時間も迫っていたので郷土資料館をあとに駅前口(三島駅)を目指します。
 途中、大きな広場には「売店」「食堂」「どうぶつ広場」「のりもの広場」などがありましたが、今度の楽しみに取って置きます。

「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」(「ちょっとブレイク」編)

太宰治の生誕100年を記念して製作されている4本の作品

①「斜陽」
②「パンドラの匣」
③「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」
④「人間失格」

の中で、実際に「三島」でロケが行われた作品がありました。

①「斜陽」

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「斜陽」© KAERUCAFE DIGITAL CINEMA CIRCUS.

監督:秋原正俊
原作:太宰治
音楽:黒色すみれ
製作国:2009年日本映画
上映時間:1時間20分
配給:カエルカフェ

ストーリー「太宰治の生誕100周年となる2009年、太宰の同名代表作を佐藤江梨子主演で映画化。監督は、「富嶽百景/遙かなる場所」でも太宰作品を映画化した秋原正俊。良家の子女・かず子は、とある事情から都会の喧騒を逃れ、母とともに田舎へと越してくるが、母は慣れ親しんだ旧家への思いから病に倒れてしまう。そんなある日、無頼漢の弟・直治が舞い戻り、直治の仲間・上原と知り合ったかず子の人生は思いもよらない方向へと向かう……。」

出演者「佐藤江梨子、温水洋一、伊藤陽佑、真砂皓太、小倉一郎、高橋ひとみ、凜華せら、初嶺麿代、有末麻祐子、今村祈履、駒井亜由美、北野恒安、前内孝文、小野寺仁子 」「eiga.comより引用」

よく調べてみると実際に「三島」で撮影した時の様子を紹介した新聞記事がありました。

「太宰治ゆかりの三島で「斜陽」撮影 太宰フリークのサトエリ「斜陽に合う」」

秋原監督「ロケ地決めて作品選んだ」

「太宰治(1909~48)生誕100年を記念し、来年5月に全国公開される映画「斜陽」のロケが9、10の両日、太宰ゆかりの三島市で行われ、主演の佐藤江梨子さんらが撮影をこなした。デジタル映画界で注目される秋原正俊監督が、ロケ地に三島を選んでから作品を決めたという映画だ。
 映画の時代は現代に設定。今月初めから兵庫、岡山県でロケ、三島は俳優が演じる場面としては最終撮影地となった。三嶋大社近くの住宅街にたたずむ、江戸時代の建物で三嶋暦の展示館「三嶋暦師の館」では10日、佐藤さんが演じるかず子が慕う流行作家の上原を訪ねる場面を撮影。上原は不在で、上原の妻役で着物姿の凛華せらさんが丁重に応対していた。
 三島ではほかにみしまプラザホテルと、源兵衛川沿いのカフェ「ディレッタントカフェ」で撮影。バーのママ役には映画初出演となる清水南高卒の宝塚出身女優、初嶺麿代さんが起用された。
 秋原監督は「太宰の映画を上映してくれる映画館として、東日本ではシネプラザサントムーン(清水町)が手を挙げてくれた。ロケ地を三島などに決めてからふさわしい太宰作品を選んだ。ロケ地に近い映画館で地元の方に鑑賞してほしい」と説明している。
 また、太宰フリークという佐藤さんは三島ロケの感想を「どこか懐かしい、昔の日本を感じる土地で、斜陽に合う」と話す。
 太宰は1934(昭和9)年の夏、25歳のときに知人の縁で三島に1カ月ほど滞在。「ロマネスク」「老ハイデルベルヒ」などに三島が登場するなど、三島とは縁がある。」(「毎日新聞」2008年11月11日記事より引用)


そこで・・・今回は「ちょっとブレイク」企画。

「本来の取材のついでと言ってはなんですが・・・実際に撮影が行われた場所に行っちゃいました!!」編

①「みしまプラザホテル」

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「斜陽」© KAERUCAFE DIGITAL CINEMA CIRCUS.

「2008年の11月某日、THE MORRISのデザイナーズウェディングホール「LUNAR」の会場内にあるラウンジを「CHIDORI」というスナック?BAR?に見立てて温水さんや他のキャストが賑やかにお酒を飲んでいるというシーンを撮影。そこで温水さんたちを囲む女性は・・すべてホテルスタッフだったそうです。」(「THE MORRIS EVENT BLOG」より引用)

②「ディレッタントカフェ」(三島市緑町1-1 )

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「斜陽」© KAERUCAFE DIGITAL CINEMA CIRCUS.

 市内回遊ルートの中のひとつ「源兵衛川水辺の散歩道」の途中にある川沿いのカフェです。「満願」の舞台となった「今井婦人科医院跡」の付近です。

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「ディレッタントカフェ」(2009年9月撮影)

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「ディレッタントカフェ」(2009年9月撮影)

③三嶋暦の展示館「三嶋暦師の館」(三島市大宮町2丁目5-17)

三嶋大社に取材に行った帰りに、ちょっと立ち寄ってみました。
三嶋大社から案内版が路面に埋め込まれているということで、その通りに行ってみると・・・ちょっと分かりづらい・・・完全な住宅地なんですよ。

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「路面に埋め込まれた案内版」(2009年9月撮影)

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三嶋暦の展示館「三嶋暦師の館」(2009年9月撮影)



「映画【斜陽 -Shayo-】」

〇「太宰が滞在中に通ったとされる「ララ洋菓子店」の女主人、菊川千代子さんに関すること」

「太宰もファン“看板娘”逝く 三島の洋菓子元店主」

「三島市広小路町に本店がある洋菓子の老舗「ララ洋菓子店」の店主だった菊川千代子さん(同市芝本町)が96歳で亡くなり、14日、告別式が行われた。夫の故儀雄さんとともに昭和7年に創業した喫茶室もある店には三島で一夏を過ごした太宰治も通い、千代子さんのファンだったという。千代子さんを知る人たちは明治、大正、昭和、平成を気丈に生き、多くの人に慕われながら70歳まで店に立った“看板娘”をしのんでいる。
 千代子さんは東京に生まれ、三島の和菓子屋の三男だった儀雄さんと結婚。東京のハイカラな空気も吸っていた儀雄さんは「俺は洋菓子で行く」と千代子さんと現在の本店所在地に店を開いたという。
 太宰は昭和9年8月、同市泉町の故坂部武郎さん方に約1カ月滞在し、「ロマネスク」を書き上げた。作家で県伊豆文学フェスティバル委員の中尾勇さん(同市大宮町)が坂部さんに聞いた話では、太宰は毎日のように散歩の途中に店に寄ってレコードを聞きながらコーヒーを飲み、千代子さんのことを「自分好み」と話していたという。」(「静岡新聞」2009年1月15日の記事より引用)

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写真中央が現在の「ララ洋菓子店(三島市広小路町)」(2009年9月撮影)

 そんな菊川千代子さんが、「聞き書き 三島の女性史 みしま女性史サークル編」(静岡新聞社)の1999年の聞き取り取材で、当時のことを話されています。

「東京より三島芝町菊屋菓子店の次男に嫁ぎました。世界恐慌の不景気な時代でした。翌1932年(昭和7年)、ララ洋菓子店を広小路駅前通りに開店いたしました。(中略)当時、洋菓子店は三島に一軒、県東部に一軒ぐらいでしたので、生活環境や地域の風習に合わず気苦労もありました。商売柄女性が店内一切をやる方が多いので菓子職人と共に和服に割烹着姿でよく働きました。コーヒー、ケーキ、ケーキは若い人には人気があったようです。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

 また、「続・三島文学散歩(中尾勇著)(静岡新聞社)」にも「太宰治のかよったララ洋菓子店」(206~207ページ)と「太宰治が心ひかれた三島の女性」(208~209ページ)で、ご本人から聞いた話が載っています。

 このころの太宰は、すでに帝大生として東京で生活をしていましたので、「洋菓子」や「レコードを聞く」ということは珍しいことではなかったと思います。ですから、滞在先の三島の町でレコードを聞きながらコーヒーや洋菓子が食べられる環境に満足していたと思います。


〇「鉄道(東海道本線)の開通により衰退していった三島の町が、なぜモダンでセンスのある町に変貌したのか?」

 東海道の宿場町として栄えていた「三島宿」。多くの旅人は難所である箱根越えを前に旅籠で一泊し翌日に備えました。ですから、宿泊施設、飲食関連の商売が盛んでした。
 そんな中、1899年(明治22年)2月1日、文明開化の象徴でもある「鉄道」の「東海道線本線(国府津~静岡間)」が開通します。
 当時、技術的な問題もあり箱根山を迂回するルートで路線を敷設したため、三島を通ることはありませんでした。
 その後、鉄道が人や物の輸送手段の主流となると、次第に三島の町は衰退していきました。

①「1919年(大正8)年には、野戦重砲兵第二連隊が、翌1920年(大正9)年には第三連隊が三島に配備され、約3,000人の兵隊が駐留し、兵隊相手の商売(遊郭、茶屋、写真館、遊技場、みやげ物屋など)が盛んになりました。一方で、町の風紀上の問題ともなり、1925年(大正14)年に茅町(現清住町)へ娼家が移転し、戦後の売春防止法制定(1956年)まで三島遊郭として存在しました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

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「野戦重砲兵第二連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町2丁目)(2009年9月撮影) 

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「野戦重砲兵第三連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町1丁目)(2009年9月撮影)

 当時の資料を見ると、昔の東海道の街道沿い(三嶋大社から六反田(現、伊豆箱根鉄道広小路駅近辺)を中心に兵隊相手の商売をする商店が両側に軒を連ねていました。
 特に、当時(昭和初期)、田舎町としては珍しく多くの娯楽施設「三島の歌舞伎座(芝居小屋)」や「活動写真館(映画館)」(「レコード館(堀内座を映画館に改造)」「富士館(昭和元年、久楽館を改名)(大中島、現本町2-27)」「第一三島館」「第二三島館」「三島劇場」)がありました。

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「「歌舞伎座」が最初にあったところ(大正5、6年頃)(三島市芝本町)」(2009年9月撮影)

②「1930(昭和5)年11月26日、北伊豆地震(震央は丹那盆地南、震度6と推定)に見舞われ、死者7名、4,300軒あった三島町の半分が被災しました。1933年(昭和8年)、北伊豆地震からほぼ復興し、後に「看板建築」と名付けられたモダンな建物が建ち、町並みが生まれ変わりました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

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都市景観重要建築物等指定物件、第1号指定「高橋綿店(三島市中央町)昭和7年建築 木造2階」(2009年9月撮影)

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都市景観重要建築物等指定物件、第2号指定「カワツネ(三島市中央町)昭和5年建築 木造2階」(2009年9月撮影)

※「景観重要建築物等」とは、景観の形成のために重要な価値があると認められる建築物等を三島市景観条例第14条に基づき指定するものですが、指定する場合には、景観審議会の意見を聴くとともに所有者等の同意を得ることになっています。」(「三島市役所」HPより引用)

 太宰が滞在した昭和9年(1934年)には、北伊豆地震の傷跡も癒え新たな町として生まれ変わっていたと考えます。