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「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」(「ちょっとブレイク」編)

太宰治の生誕100年を記念して製作されている4本の作品

①「斜陽」
②「パンドラの匣」
③「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」
④「人間失格」

の中で、実際に「三島」でロケが行われた作品がありました。

①「斜陽」

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「斜陽」© KAERUCAFE DIGITAL CINEMA CIRCUS.

監督:秋原正俊
原作:太宰治
音楽:黒色すみれ
製作国:2009年日本映画
上映時間:1時間20分
配給:カエルカフェ

ストーリー「太宰治の生誕100周年となる2009年、太宰の同名代表作を佐藤江梨子主演で映画化。監督は、「富嶽百景/遙かなる場所」でも太宰作品を映画化した秋原正俊。良家の子女・かず子は、とある事情から都会の喧騒を逃れ、母とともに田舎へと越してくるが、母は慣れ親しんだ旧家への思いから病に倒れてしまう。そんなある日、無頼漢の弟・直治が舞い戻り、直治の仲間・上原と知り合ったかず子の人生は思いもよらない方向へと向かう……。」

出演者「佐藤江梨子、温水洋一、伊藤陽佑、真砂皓太、小倉一郎、高橋ひとみ、凜華せら、初嶺麿代、有末麻祐子、今村祈履、駒井亜由美、北野恒安、前内孝文、小野寺仁子 」「eiga.comより引用」

よく調べてみると実際に「三島」で撮影した時の様子を紹介した新聞記事がありました。

「太宰治ゆかりの三島で「斜陽」撮影 太宰フリークのサトエリ「斜陽に合う」」

秋原監督「ロケ地決めて作品選んだ」

「太宰治(1909~48)生誕100年を記念し、来年5月に全国公開される映画「斜陽」のロケが9、10の両日、太宰ゆかりの三島市で行われ、主演の佐藤江梨子さんらが撮影をこなした。デジタル映画界で注目される秋原正俊監督が、ロケ地に三島を選んでから作品を決めたという映画だ。
 映画の時代は現代に設定。今月初めから兵庫、岡山県でロケ、三島は俳優が演じる場面としては最終撮影地となった。三嶋大社近くの住宅街にたたずむ、江戸時代の建物で三嶋暦の展示館「三嶋暦師の館」では10日、佐藤さんが演じるかず子が慕う流行作家の上原を訪ねる場面を撮影。上原は不在で、上原の妻役で着物姿の凛華せらさんが丁重に応対していた。
 三島ではほかにみしまプラザホテルと、源兵衛川沿いのカフェ「ディレッタントカフェ」で撮影。バーのママ役には映画初出演となる清水南高卒の宝塚出身女優、初嶺麿代さんが起用された。
 秋原監督は「太宰の映画を上映してくれる映画館として、東日本ではシネプラザサントムーン(清水町)が手を挙げてくれた。ロケ地を三島などに決めてからふさわしい太宰作品を選んだ。ロケ地に近い映画館で地元の方に鑑賞してほしい」と説明している。
 また、太宰フリークという佐藤さんは三島ロケの感想を「どこか懐かしい、昔の日本を感じる土地で、斜陽に合う」と話す。
 太宰は1934(昭和9)年の夏、25歳のときに知人の縁で三島に1カ月ほど滞在。「ロマネスク」「老ハイデルベルヒ」などに三島が登場するなど、三島とは縁がある。」(「毎日新聞」2008年11月11日記事より引用)


そこで・・・今回は「ちょっとブレイク」企画。

「本来の取材のついでと言ってはなんですが・・・実際に撮影が行われた場所に行っちゃいました!!」編

①「みしまプラザホテル」

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「斜陽」© KAERUCAFE DIGITAL CINEMA CIRCUS.

「2008年の11月某日、THE MORRISのデザイナーズウェディングホール「LUNAR」の会場内にあるラウンジを「CHIDORI」というスナック?BAR?に見立てて温水さんや他のキャストが賑やかにお酒を飲んでいるというシーンを撮影。そこで温水さんたちを囲む女性は・・すべてホテルスタッフだったそうです。」(「THE MORRIS EVENT BLOG」より引用)

②「ディレッタントカフェ」(三島市緑町1-1 )

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「斜陽」© KAERUCAFE DIGITAL CINEMA CIRCUS.

 市内回遊ルートの中のひとつ「源兵衛川水辺の散歩道」の途中にある川沿いのカフェです。「満願」の舞台となった「今井婦人科医院跡」の付近です。

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「ディレッタントカフェ」(2009年9月撮影)

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「ディレッタントカフェ」(2009年9月撮影)

③三嶋暦の展示館「三嶋暦師の館」(三島市大宮町2丁目5-17)

三嶋大社に取材に行った帰りに、ちょっと立ち寄ってみました。
三嶋大社から案内版が路面に埋め込まれているということで、その通りに行ってみると・・・ちょっと分かりづらい・・・完全な住宅地なんですよ。

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「路面に埋め込まれた案内版」(2009年9月撮影)

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三嶋暦の展示館「三嶋暦師の館」(2009年9月撮影)



「映画【斜陽 -Shayo-】」

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〇「太宰が滞在中に通ったとされる「ララ洋菓子店」の女主人、菊川千代子さんに関すること」

「太宰もファン“看板娘”逝く 三島の洋菓子元店主」

「三島市広小路町に本店がある洋菓子の老舗「ララ洋菓子店」の店主だった菊川千代子さん(同市芝本町)が96歳で亡くなり、14日、告別式が行われた。夫の故儀雄さんとともに昭和7年に創業した喫茶室もある店には三島で一夏を過ごした太宰治も通い、千代子さんのファンだったという。千代子さんを知る人たちは明治、大正、昭和、平成を気丈に生き、多くの人に慕われながら70歳まで店に立った“看板娘”をしのんでいる。
 千代子さんは東京に生まれ、三島の和菓子屋の三男だった儀雄さんと結婚。東京のハイカラな空気も吸っていた儀雄さんは「俺は洋菓子で行く」と千代子さんと現在の本店所在地に店を開いたという。
 太宰は昭和9年8月、同市泉町の故坂部武郎さん方に約1カ月滞在し、「ロマネスク」を書き上げた。作家で県伊豆文学フェスティバル委員の中尾勇さん(同市大宮町)が坂部さんに聞いた話では、太宰は毎日のように散歩の途中に店に寄ってレコードを聞きながらコーヒーを飲み、千代子さんのことを「自分好み」と話していたという。」(「静岡新聞」2009年1月15日の記事より引用)

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写真中央が現在の「ララ洋菓子店(三島市広小路町)」(2009年9月撮影)

 そんな菊川千代子さんが、「聞き書き 三島の女性史 みしま女性史サークル編」(静岡新聞社)の1999年の聞き取り取材で、当時のことを話されています。

「東京より三島芝町菊屋菓子店の次男に嫁ぎました。世界恐慌の不景気な時代でした。翌1932年(昭和7年)、ララ洋菓子店を広小路駅前通りに開店いたしました。(中略)当時、洋菓子店は三島に一軒、県東部に一軒ぐらいでしたので、生活環境や地域の風習に合わず気苦労もありました。商売柄女性が店内一切をやる方が多いので菓子職人と共に和服に割烹着姿でよく働きました。コーヒー、ケーキ、ケーキは若い人には人気があったようです。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

 また、「続・三島文学散歩(中尾勇著)(静岡新聞社)」にも「太宰治のかよったララ洋菓子店」(206~207ページ)と「太宰治が心ひかれた三島の女性」(208~209ページ)で、ご本人から聞いた話が載っています。

 このころの太宰は、すでに帝大生として東京で生活をしていましたので、「洋菓子」や「レコードを聞く」ということは珍しいことではなかったと思います。ですから、滞在先の三島の町でレコードを聞きながらコーヒーや洋菓子が食べられる環境に満足していたと思います。


〇「鉄道(東海道本線)の開通により衰退していった三島の町が、なぜモダンでセンスのある町に変貌したのか?」

 東海道の宿場町として栄えていた「三島宿」。多くの旅人は難所である箱根越えを前に旅籠で一泊し翌日に備えました。ですから、宿泊施設、飲食関連の商売が盛んでした。
 そんな中、1899年(明治22年)2月1日、文明開化の象徴でもある「鉄道」の「東海道線本線(国府津~静岡間)」が開通します。
 当時、技術的な問題もあり箱根山を迂回するルートで路線を敷設したため、三島を通ることはありませんでした。
 その後、鉄道が人や物の輸送手段の主流となると、次第に三島の町は衰退していきました。

①「1919年(大正8)年には、野戦重砲兵第二連隊が、翌1920年(大正9)年には第三連隊が三島に配備され、約3,000人の兵隊が駐留し、兵隊相手の商売(遊郭、茶屋、写真館、遊技場、みやげ物屋など)が盛んになりました。一方で、町の風紀上の問題ともなり、1925年(大正14)年に茅町(現清住町)へ娼家が移転し、戦後の売春防止法制定(1956年)まで三島遊郭として存在しました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

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「野戦重砲兵第二連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町2丁目)(2009年9月撮影) 

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「野戦重砲兵第三連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町1丁目)(2009年9月撮影)

 当時の資料を見ると、昔の東海道の街道沿い(三嶋大社から六反田(現、伊豆箱根鉄道広小路駅近辺)を中心に兵隊相手の商売をする商店が両側に軒を連ねていました。
 特に、当時(昭和初期)、田舎町としては珍しく多くの娯楽施設「三島の歌舞伎座(芝居小屋)」や「活動写真館(映画館)」(「レコード館(堀内座を映画館に改造)」「富士館(昭和元年、久楽館を改名)(大中島、現本町2-27)」「第一三島館」「第二三島館」「三島劇場」)がありました。

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「「歌舞伎座」が最初にあったところ(大正5、6年頃)(三島市芝本町)」(2009年9月撮影)

②「1930(昭和5)年11月26日、北伊豆地震(震央は丹那盆地南、震度6と推定)に見舞われ、死者7名、4,300軒あった三島町の半分が被災しました。1933年(昭和8年)、北伊豆地震からほぼ復興し、後に「看板建築」と名付けられたモダンな建物が建ち、町並みが生まれ変わりました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

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都市景観重要建築物等指定物件、第1号指定「高橋綿店(三島市中央町)昭和7年建築 木造2階」(2009年9月撮影)

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都市景観重要建築物等指定物件、第2号指定「カワツネ(三島市中央町)昭和5年建築 木造2階」(2009年9月撮影)

※「景観重要建築物等」とは、景観の形成のために重要な価値があると認められる建築物等を三島市景観条例第14条に基づき指定するものですが、指定する場合には、景観審議会の意見を聴くとともに所有者等の同意を得ることになっています。」(「三島市役所」HPより引用)

 太宰が滞在した昭和9年(1934年)には、北伊豆地震の傷跡も癒え新たな町として生まれ変わっていたと考えます。