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2009.10.05
「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」(整理した資料から)
〇「太宰が滞在中に通ったとされる「ララ洋菓子店」の女主人、菊川千代子さんに関すること」
「太宰もファン“看板娘”逝く 三島の洋菓子元店主」
「三島市広小路町に本店がある洋菓子の老舗「ララ洋菓子店」の店主だった菊川千代子さん(同市芝本町)が96歳で亡くなり、14日、告別式が行われた。夫の故儀雄さんとともに昭和7年に創業した喫茶室もある店には三島で一夏を過ごした太宰治も通い、千代子さんのファンだったという。千代子さんを知る人たちは明治、大正、昭和、平成を気丈に生き、多くの人に慕われながら70歳まで店に立った“看板娘”をしのんでいる。
千代子さんは東京に生まれ、三島の和菓子屋の三男だった儀雄さんと結婚。東京のハイカラな空気も吸っていた儀雄さんは「俺は洋菓子で行く」と千代子さんと現在の本店所在地に店を開いたという。
太宰は昭和9年8月、同市泉町の故坂部武郎さん方に約1カ月滞在し、「ロマネスク」を書き上げた。作家で県伊豆文学フェスティバル委員の中尾勇さん(同市大宮町)が坂部さんに聞いた話では、太宰は毎日のように散歩の途中に店に寄ってレコードを聞きながらコーヒーを飲み、千代子さんのことを「自分好み」と話していたという。」(「静岡新聞」2009年1月15日の記事より引用)

写真中央が現在の「ララ洋菓子店(三島市広小路町)」(2009年9月撮影)
そんな菊川千代子さんが、「聞き書き 三島の女性史 みしま女性史サークル編」(静岡新聞社)の1999年の聞き取り取材で、当時のことを話されています。
「東京より三島芝町菊屋菓子店の次男に嫁ぎました。世界恐慌の不景気な時代でした。翌1932年(昭和7年)、ララ洋菓子店を広小路駅前通りに開店いたしました。(中略)当時、洋菓子店は三島に一軒、県東部に一軒ぐらいでしたので、生活環境や地域の風習に合わず気苦労もありました。商売柄女性が店内一切をやる方が多いので菓子職人と共に和服に割烹着姿でよく働きました。コーヒー、ケーキ、ケーキは若い人には人気があったようです。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)
また、「続・三島文学散歩(中尾勇著)(静岡新聞社)」にも「太宰治のかよったララ洋菓子店」(206~207ページ)と「太宰治が心ひかれた三島の女性」(208~209ページ)で、ご本人から聞いた話が載っています。
このころの太宰は、すでに帝大生として東京で生活をしていましたので、「洋菓子」や「レコードを聞く」ということは珍しいことではなかったと思います。ですから、滞在先の三島の町でレコードを聞きながらコーヒーや洋菓子が食べられる環境に満足していたと思います。
〇「鉄道(東海道本線)の開通により衰退していった三島の町が、なぜモダンでセンスのある町に変貌したのか?」
東海道の宿場町として栄えていた「三島宿」。多くの旅人は難所である箱根越えを前に旅籠で一泊し翌日に備えました。ですから、宿泊施設、飲食関連の商売が盛んでした。
そんな中、1899年(明治22年)2月1日、文明開化の象徴でもある「鉄道」の「東海道線本線(国府津~静岡間)」が開通します。
当時、技術的な問題もあり箱根山を迂回するルートで路線を敷設したため、三島を通ることはありませんでした。
その後、鉄道が人や物の輸送手段の主流となると、次第に三島の町は衰退していきました。
①「1919年(大正8)年には、野戦重砲兵第二連隊が、翌1920年(大正9)年には第三連隊が三島に配備され、約3,000人の兵隊が駐留し、兵隊相手の商売(遊郭、茶屋、写真館、遊技場、みやげ物屋など)が盛んになりました。一方で、町の風紀上の問題ともなり、1925年(大正14)年に茅町(現清住町)へ娼家が移転し、戦後の売春防止法制定(1956年)まで三島遊郭として存在しました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

「野戦重砲兵第二連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町2丁目)(2009年9月撮影)

「野戦重砲兵第三連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町1丁目)(2009年9月撮影)
当時の資料を見ると、昔の東海道の街道沿い(三嶋大社から六反田(現、伊豆箱根鉄道広小路駅近辺)を中心に兵隊相手の商売をする商店が両側に軒を連ねていました。
特に、当時(昭和初期)、田舎町としては珍しく多くの娯楽施設「三島の歌舞伎座(芝居小屋)」や「活動写真館(映画館)」(「レコード館(堀内座を映画館に改造)」「富士館(昭和元年、久楽館を改名)(大中島、現本町2-27)」「第一三島館」「第二三島館」「三島劇場」)がありました。

「「歌舞伎座」が最初にあったところ(大正5、6年頃)(三島市芝本町)」(2009年9月撮影)
②「1930(昭和5)年11月26日、北伊豆地震(震央は丹那盆地南、震度6と推定)に見舞われ、死者7名、4,300軒あった三島町の半分が被災しました。1933年(昭和8年)、北伊豆地震からほぼ復興し、後に「看板建築」と名付けられたモダンな建物が建ち、町並みが生まれ変わりました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

都市景観重要建築物等指定物件、第1号指定「高橋綿店(三島市中央町)昭和7年建築 木造2階」(2009年9月撮影)

都市景観重要建築物等指定物件、第2号指定「カワツネ(三島市中央町)昭和5年建築 木造2階」(2009年9月撮影)
※「景観重要建築物等」とは、景観の形成のために重要な価値があると認められる建築物等を三島市景観条例第14条に基づき指定するものですが、指定する場合には、景観審議会の意見を聴くとともに所有者等の同意を得ることになっています。」(「三島市役所」HPより引用)
太宰が滞在した昭和9年(1934年)には、北伊豆地震の傷跡も癒え新たな町として生まれ変わっていたと考えます。
「太宰もファン“看板娘”逝く 三島の洋菓子元店主」
「三島市広小路町に本店がある洋菓子の老舗「ララ洋菓子店」の店主だった菊川千代子さん(同市芝本町)が96歳で亡くなり、14日、告別式が行われた。夫の故儀雄さんとともに昭和7年に創業した喫茶室もある店には三島で一夏を過ごした太宰治も通い、千代子さんのファンだったという。千代子さんを知る人たちは明治、大正、昭和、平成を気丈に生き、多くの人に慕われながら70歳まで店に立った“看板娘”をしのんでいる。
千代子さんは東京に生まれ、三島の和菓子屋の三男だった儀雄さんと結婚。東京のハイカラな空気も吸っていた儀雄さんは「俺は洋菓子で行く」と千代子さんと現在の本店所在地に店を開いたという。
太宰は昭和9年8月、同市泉町の故坂部武郎さん方に約1カ月滞在し、「ロマネスク」を書き上げた。作家で県伊豆文学フェスティバル委員の中尾勇さん(同市大宮町)が坂部さんに聞いた話では、太宰は毎日のように散歩の途中に店に寄ってレコードを聞きながらコーヒーを飲み、千代子さんのことを「自分好み」と話していたという。」(「静岡新聞」2009年1月15日の記事より引用)

写真中央が現在の「ララ洋菓子店(三島市広小路町)」(2009年9月撮影)
そんな菊川千代子さんが、「聞き書き 三島の女性史 みしま女性史サークル編」(静岡新聞社)の1999年の聞き取り取材で、当時のことを話されています。
「東京より三島芝町菊屋菓子店の次男に嫁ぎました。世界恐慌の不景気な時代でした。翌1932年(昭和7年)、ララ洋菓子店を広小路駅前通りに開店いたしました。(中略)当時、洋菓子店は三島に一軒、県東部に一軒ぐらいでしたので、生活環境や地域の風習に合わず気苦労もありました。商売柄女性が店内一切をやる方が多いので菓子職人と共に和服に割烹着姿でよく働きました。コーヒー、ケーキ、ケーキは若い人には人気があったようです。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)
また、「続・三島文学散歩(中尾勇著)(静岡新聞社)」にも「太宰治のかよったララ洋菓子店」(206~207ページ)と「太宰治が心ひかれた三島の女性」(208~209ページ)で、ご本人から聞いた話が載っています。
このころの太宰は、すでに帝大生として東京で生活をしていましたので、「洋菓子」や「レコードを聞く」ということは珍しいことではなかったと思います。ですから、滞在先の三島の町でレコードを聞きながらコーヒーや洋菓子が食べられる環境に満足していたと思います。
〇「鉄道(東海道本線)の開通により衰退していった三島の町が、なぜモダンでセンスのある町に変貌したのか?」
東海道の宿場町として栄えていた「三島宿」。多くの旅人は難所である箱根越えを前に旅籠で一泊し翌日に備えました。ですから、宿泊施設、飲食関連の商売が盛んでした。
そんな中、1899年(明治22年)2月1日、文明開化の象徴でもある「鉄道」の「東海道線本線(国府津~静岡間)」が開通します。
当時、技術的な問題もあり箱根山を迂回するルートで路線を敷設したため、三島を通ることはありませんでした。
その後、鉄道が人や物の輸送手段の主流となると、次第に三島の町は衰退していきました。
①「1919年(大正8)年には、野戦重砲兵第二連隊が、翌1920年(大正9)年には第三連隊が三島に配備され、約3,000人の兵隊が駐留し、兵隊相手の商売(遊郭、茶屋、写真館、遊技場、みやげ物屋など)が盛んになりました。一方で、町の風紀上の問題ともなり、1925年(大正14)年に茅町(現清住町)へ娼家が移転し、戦後の売春防止法制定(1956年)まで三島遊郭として存在しました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

「野戦重砲兵第二連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町2丁目)(2009年9月撮影)

「野戦重砲兵第三連隊」連隊門および歩哨所跡(三島市文教町1丁目)(2009年9月撮影)
当時の資料を見ると、昔の東海道の街道沿い(三嶋大社から六反田(現、伊豆箱根鉄道広小路駅近辺)を中心に兵隊相手の商売をする商店が両側に軒を連ねていました。
特に、当時(昭和初期)、田舎町としては珍しく多くの娯楽施設「三島の歌舞伎座(芝居小屋)」や「活動写真館(映画館)」(「レコード館(堀内座を映画館に改造)」「富士館(昭和元年、久楽館を改名)(大中島、現本町2-27)」「第一三島館」「第二三島館」「三島劇場」)がありました。

「「歌舞伎座」が最初にあったところ(大正5、6年頃)(三島市芝本町)」(2009年9月撮影)
②「1930(昭和5)年11月26日、北伊豆地震(震央は丹那盆地南、震度6と推定)に見舞われ、死者7名、4,300軒あった三島町の半分が被災しました。1933年(昭和8年)、北伊豆地震からほぼ復興し、後に「看板建築」と名付けられたモダンな建物が建ち、町並みが生まれ変わりました。」(「聞き書き 三島の女性史」(みしま女性史サークル編)」(静岡新聞社)より引用)

都市景観重要建築物等指定物件、第1号指定「高橋綿店(三島市中央町)昭和7年建築 木造2階」(2009年9月撮影)

都市景観重要建築物等指定物件、第2号指定「カワツネ(三島市中央町)昭和5年建築 木造2階」(2009年9月撮影)
※「景観重要建築物等」とは、景観の形成のために重要な価値があると認められる建築物等を三島市景観条例第14条に基づき指定するものですが、指定する場合には、景観審議会の意見を聴くとともに所有者等の同意を得ることになっています。」(「三島市役所」HPより引用)
太宰が滞在した昭和9年(1934年)には、北伊豆地震の傷跡も癒え新たな町として生まれ変わっていたと考えます。
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