| Home |
2009.10.27
「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」(「取材日記」その2) 南部孝一
太宰治が小説執筆の為に滞在していた昭和9年(1934年)三島町ではちょっとしたブームが巻き起こっていました。
それは「農兵節」です。
「富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧がながい
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ 御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ 御客おこればノーエ 御客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止る
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける」(「三島農兵節普及会」資料より引用)
これは有名な「農兵節」の歌詞です。
昭和9年2月に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコードが発売され、瞬く間にヒットしラジオでも放送されたようです。
当然、ご当地である三島町内では、祭典はもちろん料亭の宴席などいたるところで歌われていたことでしょう。
滞在中、毎夜、坂部武郎さんを連れ立って飲みに行っていた太宰も一度は聞いていたことだと思います。
そんな「農兵節」ですが、歌詞に出てくる「三島女郎衆」が少し気になっていた私は追加調査してみることにしました。
〇「三島女郎衆」の起源について
「天正十八年三月豊臣秀吉が小田原北條氏攻撃に際しては将兵の休養に女を与えて慰安したと伝えられているので、売笑婦の数もおびただしいものであったに相違ない。こうした女は将兵に春を売る目的のために遠州以遠の地、または京大阪附近の売笑婦が大挙動員されたようである。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)
「特に将兵の好んで賞美した者は相模女と安房女であった。伊豆の女は概して浮気風であるが、安房女は腰のバネがよく、相模女に至っては従順でしかも男の堪能するまで務め上げるという積極性と魅力とに富んでいる。だから、江戸時代になっても三島の宿場女郎には比較的安房と相模出生の女が多かった。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)
とあります。
「農兵節」でも歌われている江戸時代から続く「三島女郎衆」の在籍していた「飯盛旅籠」(その後、明治政府の取締まりにより「貸座敷業者」に変容していきます。)が、大正末期、取締っていた内務省の新しい方針により、風紀上の理由から街道での営業が出来なくなってしまいます。
そこで、明治中期以降、街道沿いで営業していた「花本」「宝来」「中川」「尾張」「稲妻」「千歳」「井桁」「万字(後に万寿と改称)」「鳴海」「清水」の10軒は、三島における実力者でもあった「稲妻楼」の発起により「三島遊廓」を設立することになります。
しかし、新しい移転先の土地買収などに多額の資金を必要としたため、いくつかの業者はやむなく廃業することとなり、最終的には「稲妻」「尾張」「万寿」「井桁」「新喜」の5軒で営業することになります。
新たな移転先には、宿場から離れていて風紀上もっとも影響が少ない街道の西南に位置する「三島新地(茅町)(現、三島市清住町近辺)」が選ばれ,大正14年(1925年)「三島遊廓」を形成して営業を開始します。

「三島遊廓 萬字樓」(1932年・昭和7年)(「ふり返る20世紀-三島100年の証言-」(三島市郷土資料館)から引用)
私も跡地に伺って周辺を散策しましたが、現在は静寂に包まれた住宅街で隣接する駿東郡清水町との境界線でもある「境川」があり、川のせせらぎと鳥の囀りが響き渡る良いところです。
太宰が三島に滞在していた頃は、夜ともなると近隣の旦那衆や野戦重砲兵連隊の兵隊さんで、かなり賑わっていたことでしょう。

「跡地の横にある境川」(2009年10月撮影)
文献にもあるように「農兵節」の歌詞にも出てくる「三島女郎衆」が人気が高かったのは、「安土桃山時代(天正十八(1590)年)」以降、この地に辿りついたそれぞれ出身地の違う女性たち(「身体的に魅力のあった安房の女性」「ある時は従順な積極性と魅力とに富んでいた相模の女性」「曽根崎心中にも代表される情の深い関西の女性」「奥ゆかしい京の雅さを持った女性」)など、それぞれの要素がお互いに融合する形で、時代を経て江戸時代後期には「三島女郎衆」としての原型が出来あがったのではないでしょうか。
そんな事を思いつつ、最後に今回、調査した文献(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編))の中に「宿場女郎の墓」の写真が掲載されていましたので御供養する意味で、そのお寺にお邪魔することにしました。
写真には「圓明寺(えんみょうじ)」と書いてありましたので、地図を参照してみると旧東海道から北に1本通っている通称「鎌倉古道」沿いにあることが分かりました。

「旧鎌倉古道から圓明寺(えんみょうじ)入口を見たところ」(2009年10月撮影)
その「圓明寺(現、三島市芝本町)」は、通りから少し奥まったところにありました。

「圓明寺の参道」(2009年10月撮影)

「圓明寺の山門」(2009年10月撮影)
本堂にお伺いしたら返答がありませんでしたので自宅の方へお伺いしました。
筆者「(インターホーンを押して)すみません。三島の歴史について取材している者ですが・・・。」
女性「は~い。(ドア)開いてますよ。」
筆者「すみません。」
ドアを開けたら、そこには初老のご婦人が居られました。突然の訪問にもかかわらず快く応対していただきました。
多分、ご住職の奥様だと思いましたが失礼とは思いつつ、早速、「三島市誌(中巻)」「第七節、江戸時代(封建後期) 宿駅と交通」の419ページに掲載されている「第九十七図 宿場女郎の墓(圓明寺)」の写真のことについてお聞きしたところ、
女性「宿場女郎の墓・・・墓というか無縁仏なんですけど、もう大分、戒名が薄くなってしまって・・・お宅さまのように前に2~3人の方が(取材に)みえられましたよ。」
女性「ちょっと、待ってくださいよ。」
お忙しいにもかかわらずご丁寧にも案内してくださいました。
案内された墓石は文献で見たのとは違っていました。

「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)
筆者「三島市誌の写真では、三つお墓が並んで写っていましたが・・・。」

「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)
掲載された写真の撮影後、境内が整理され今では合同の永代供養塔として供養されているようです。
お忙しいのに、わざわざ案内していただいて、当時、太宰が味わった三島の人たちの優しさに少し触れられたような気がしました。
次回は、「小説「満願」の主人公とされる今井産婦人科医院長と三島芸妓さんについて」の予定です。「三島文学散歩(中尾勇著)」によれば主人公の「まち医者」が、もし、今井先生だとしたら・・・滞在期間中に料亭の宴席に招待されている可能性があります。
参考資料
「農兵節」
「白滝公園内に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞が刻まれています。「富士の白雪 朝日に溶て、三島女臈衆の化粧水」昭和7年(1932)三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。
農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久2年(1862)に横浜で作られた野毛山節(ノーエ節)が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。
その宣伝方法は、東京・大阪などへ赴き、「農兵節」の幟を立て、源太郎は農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用して大・小刀を腰に差し、近在の若者達と共に農兵踊りを披露し人目を引きました。一方、昭和9年に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせています。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になりました。」(「三島市役所HPより引用)
それは「農兵節」です。
「富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧がながい
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ 御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ 御客おこればノーエ 御客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止る
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける」(「三島農兵節普及会」資料より引用)
これは有名な「農兵節」の歌詞です。
昭和9年2月に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコードが発売され、瞬く間にヒットしラジオでも放送されたようです。
当然、ご当地である三島町内では、祭典はもちろん料亭の宴席などいたるところで歌われていたことでしょう。
滞在中、毎夜、坂部武郎さんを連れ立って飲みに行っていた太宰も一度は聞いていたことだと思います。
そんな「農兵節」ですが、歌詞に出てくる「三島女郎衆」が少し気になっていた私は追加調査してみることにしました。
〇「三島女郎衆」の起源について
「天正十八年三月豊臣秀吉が小田原北條氏攻撃に際しては将兵の休養に女を与えて慰安したと伝えられているので、売笑婦の数もおびただしいものであったに相違ない。こうした女は将兵に春を売る目的のために遠州以遠の地、または京大阪附近の売笑婦が大挙動員されたようである。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)
「特に将兵の好んで賞美した者は相模女と安房女であった。伊豆の女は概して浮気風であるが、安房女は腰のバネがよく、相模女に至っては従順でしかも男の堪能するまで務め上げるという積極性と魅力とに富んでいる。だから、江戸時代になっても三島の宿場女郎には比較的安房と相模出生の女が多かった。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)
とあります。
「農兵節」でも歌われている江戸時代から続く「三島女郎衆」の在籍していた「飯盛旅籠」(その後、明治政府の取締まりにより「貸座敷業者」に変容していきます。)が、大正末期、取締っていた内務省の新しい方針により、風紀上の理由から街道での営業が出来なくなってしまいます。
そこで、明治中期以降、街道沿いで営業していた「花本」「宝来」「中川」「尾張」「稲妻」「千歳」「井桁」「万字(後に万寿と改称)」「鳴海」「清水」の10軒は、三島における実力者でもあった「稲妻楼」の発起により「三島遊廓」を設立することになります。
しかし、新しい移転先の土地買収などに多額の資金を必要としたため、いくつかの業者はやむなく廃業することとなり、最終的には「稲妻」「尾張」「万寿」「井桁」「新喜」の5軒で営業することになります。
新たな移転先には、宿場から離れていて風紀上もっとも影響が少ない街道の西南に位置する「三島新地(茅町)(現、三島市清住町近辺)」が選ばれ,大正14年(1925年)「三島遊廓」を形成して営業を開始します。

「三島遊廓 萬字樓」(1932年・昭和7年)(「ふり返る20世紀-三島100年の証言-」(三島市郷土資料館)から引用)
私も跡地に伺って周辺を散策しましたが、現在は静寂に包まれた住宅街で隣接する駿東郡清水町との境界線でもある「境川」があり、川のせせらぎと鳥の囀りが響き渡る良いところです。
太宰が三島に滞在していた頃は、夜ともなると近隣の旦那衆や野戦重砲兵連隊の兵隊さんで、かなり賑わっていたことでしょう。

「跡地の横にある境川」(2009年10月撮影)
文献にもあるように「農兵節」の歌詞にも出てくる「三島女郎衆」が人気が高かったのは、「安土桃山時代(天正十八(1590)年)」以降、この地に辿りついたそれぞれ出身地の違う女性たち(「身体的に魅力のあった安房の女性」「ある時は従順な積極性と魅力とに富んでいた相模の女性」「曽根崎心中にも代表される情の深い関西の女性」「奥ゆかしい京の雅さを持った女性」)など、それぞれの要素がお互いに融合する形で、時代を経て江戸時代後期には「三島女郎衆」としての原型が出来あがったのではないでしょうか。
そんな事を思いつつ、最後に今回、調査した文献(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編))の中に「宿場女郎の墓」の写真が掲載されていましたので御供養する意味で、そのお寺にお邪魔することにしました。
写真には「圓明寺(えんみょうじ)」と書いてありましたので、地図を参照してみると旧東海道から北に1本通っている通称「鎌倉古道」沿いにあることが分かりました。

「旧鎌倉古道から圓明寺(えんみょうじ)入口を見たところ」(2009年10月撮影)
その「圓明寺(現、三島市芝本町)」は、通りから少し奥まったところにありました。

「圓明寺の参道」(2009年10月撮影)

「圓明寺の山門」(2009年10月撮影)
本堂にお伺いしたら返答がありませんでしたので自宅の方へお伺いしました。
筆者「(インターホーンを押して)すみません。三島の歴史について取材している者ですが・・・。」
女性「は~い。(ドア)開いてますよ。」
筆者「すみません。」
ドアを開けたら、そこには初老のご婦人が居られました。突然の訪問にもかかわらず快く応対していただきました。
多分、ご住職の奥様だと思いましたが失礼とは思いつつ、早速、「三島市誌(中巻)」「第七節、江戸時代(封建後期) 宿駅と交通」の419ページに掲載されている「第九十七図 宿場女郎の墓(圓明寺)」の写真のことについてお聞きしたところ、
女性「宿場女郎の墓・・・墓というか無縁仏なんですけど、もう大分、戒名が薄くなってしまって・・・お宅さまのように前に2~3人の方が(取材に)みえられましたよ。」
女性「ちょっと、待ってくださいよ。」
お忙しいにもかかわらずご丁寧にも案内してくださいました。
案内された墓石は文献で見たのとは違っていました。

「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)
筆者「三島市誌の写真では、三つお墓が並んで写っていましたが・・・。」

「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)
掲載された写真の撮影後、境内が整理され今では合同の永代供養塔として供養されているようです。
お忙しいのに、わざわざ案内していただいて、当時、太宰が味わった三島の人たちの優しさに少し触れられたような気がしました。
次回は、「小説「満願」の主人公とされる今井産婦人科医院長と三島芸妓さんについて」の予定です。「三島文学散歩(中尾勇著)」によれば主人公の「まち医者」が、もし、今井先生だとしたら・・・滞在期間中に料亭の宴席に招待されている可能性があります。
参考資料
「農兵節」
「白滝公園内に建つ「富士の白雪の碑」には三島の民謡「農兵節」の元詞が刻まれています。「富士の白雪 朝日に溶て、三島女臈衆の化粧水」昭和7年(1932)三島水明会によって建立されました。書は平井源太郎です。
農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久2年(1862)に横浜で作られた野毛山節(ノーエ節)が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。
その宣伝方法は、東京・大阪などへ赴き、「農兵節」の幟を立て、源太郎は農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用して大・小刀を腰に差し、近在の若者達と共に農兵踊りを披露し人目を引きました。一方、昭和9年に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせています。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になりました。」(「三島市役所HPより引用)
スポンサーサイト
| Home |