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 古今東西、女性にとって「開運」や「健康」はたまた「安産」や「恋愛成就」など寺社・仏閣に詣でる風俗習慣は変らないようです。
 先日、「圓明寺(三島市芝本町)」にある「三島の宿場女郎」の永代供養塔(無縁仏)についてご紹介しました。
 そんな農兵節にも登場する東海道の街道筋でも美人が多かった「三島女郎衆」も性交渉による病気感染に関しては非常に敏感だったようです。

 1929年(昭和4年)イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングにより「ペニシリン(Penicillin)抗生物質」が発見されるまで「瘡毒(そうどく)(梅毒)」の決定的な治療法はありませんでした。
 すでに日本国内で蔓延していた「瘡毒(そうどく)(梅毒)」の起源については、今だ諸説あり研究者の間でも議論が分かれるところでが、そんな中、2008年2月に「梅毒の”起源”はコロンブス隊 米研究者」という論文が発表されます。

「性病、梅毒の起源となったのはイタリアの冒険家、コロンブスの航海だった-。米国の科学者がこのほど、病原菌の遺伝学的な研究により「15世紀末にコロンブス船団の乗組員が米大陸で感染した風土病が起源」との米大陸起源説を確認したと学会誌に発表した。
 梅毒の起源は、1490年代にイタリアで突然、記録に現れたことなどによる欧州起源説と、コロンブスらの航海で欧州にもたらされた米大陸起源説など諸説があり、長年、論争となっていた。
 研究を行ったのは、米ジョージア州アトランタにあるエモリー大のハーパー氏らのチーム。梅毒などを起こす細菌「トレポネーマ」を全世界で採取し、26サンプルを比較研究。その結果、梅毒は南米などで見られる熱帯風土病「フランベジア」に近い病気だと分かった。
 ハーパー氏らはこの発見に基づき、1492年に米大陸に到達したコロンブスの船団の乗組員がフランベジアに感染。船団の欧州帰還後、細菌は欧州の冷涼な気候に適応し、梅毒を起こす細菌に変異したとの説を立てた。その裏付けとして、コロンブスの航海以前に世界で梅毒発生が確認されていないことなどを挙げている。(共同)」(「産経ニュース」2008.2.8 より引用)

 日本で「瘡毒(そうどく)(梅毒)」が登場したのは、富士川游(ふじかわ ゆう)博士が発掘した書「月海録(竹田秀慶(たけだしゅうけい)著)」に書かれていて、室町時代の末期「永正(えいしょう)9年(1512年)」に「畿内(「山城国」京都府京都市以南)」で日本初の※「罹患(りかん)者」が出現したとあります。その呼称も多彩で「唐瘡(とうがさ)」「広東瘡(後に省略されて広瘡)」「琉球瘡」と呼ばれていたそうです。(呼称が多いのは感染経路に関係していて「唐瘡」→「広東瘡」→「琉球瘡」だとされています。)

※「罹患(りかん)」・・病気にかかること。

 この性感染病は人間を介して感染しますが、その感染経路は主に男女の性行為によるもので、当時、隆盛を極めていた江戸の吉原遊廓をはじめ全国に点在する※「遊廓」や街道の宿場町の「飯盛旅籠」など遊女を抱えていたところでは深刻な問題になっていました。
 そのことは、話題のドラマ「JIN-仁-(TBS系列)(第5話(2009年11月8日放送)「神に背く薬の誕生」(視聴率20.3%)」(毎週、日曜日、午後9時~9時54分)でも描かれています。
 ドラマ「JIN-仁-」では、吉原の遊廓「鈴屋」の花魁「野風(のかぜ)(中谷美紀さん)」の先輩「夕霧(ゆうぎり)(高岡早紀さん)」姉さんが、重度の「瘡毒(そうどく)(梅毒)」に侵され余命幾ばくも無い状態、主人公の「南方仁(みなかた じん)(大沢たかおさん)」は治療するよう懇願されますが、当時は、まだ特効薬の「ペニシリン」が存在しない為・・・。

「遊女」にとって日々の仕事とはいえ流行していた「瘡毒(そうどく)(梅毒)」は心配の種だったに違いありません。
 当時の実情としては、ほとんどの遊女たちは「瘡毒(そうどく)(梅毒)」に感染した場合、暫く床に臥しますが潜伏期に入って症状が収まると治ったと勘違いして仕事に復帰します。(このことが一人前の遊女としての証しといわれていました。)
 潜伏期を過ぎ年月が経つと病気が悪化することになります。一般的に年季奉公が10年から15年だとするとドラマのように最後は重篤な状態になってしまいます。
 ですから「禿(かむろ)(7歳~8歳頃の遊女見習いの幼女)」の頃から、このような光景を見てきている彼女たちにとっては非常に深刻な問題となる訳です。 しかし、年季奉公中、働かなくてはならない身としては、このような性感染症に罹患(りかん)したからといって休む訳にもいきません。
 ですから遊女にとって「性感染症への罹患(りかん)」は、まさに死活問題となってしまいます。
 そこで、せめてもの慰めとして「瘡守(かさもり)稲荷」を信仰し「安泰」を願うという女心だったのかもしれません。

 この「瘡守(かさもり)稲荷」の起源について文献を調べてみると、現在の兵庫県高槻市にある「笠森稲荷」が最初とされています。その後、ご利益があると評判になり、各地に「※勧請」され祀られるようになったようです。

※「勧請(かんじょう)」・・神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。

①「笠森稲荷」

「笠森稲荷(かさもりいなり)は、大阪府高槻市にある稲荷神社と、そこから※「勧請(かんじょう)」された神社のことである。笠森稲荷神社、笠森神社とも呼ばれる。 瘡(かさ、かさぶた)平癒の神として信仰された。
 笠森は瘡守(かさもり)と音を通じて、※「瘡平癒(かさへいゆ)」から、皮膚病のみならず梅毒に至るまで霊験があるとされ、江戸時代後期には各地に広まった。
 病気平癒を祈って土の団子を供え、治癒すると米の団子を供えることが慣わしになっている。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

※「瘡平癒(かさへいゆ)」・・皮膚のできもの、はれものが治ること。

②「江戸谷中(台東区上野)。笠→瘡,森→守から,梅毒に効験があると信じられ,日ましに江戸者の信仰があつくなった。
 天正12年(1584),羽柴秀吉と徳川家康が長久手で戦った折り,家康は腫れ物に悩まされていたが,家臣の倉智甚左衛門が摂津の国島上郡真上村の笠森稲荷に祈ったところ快癒してなおも戦勝をもたらした。天正18年(1590),家康が江戸に居城を構えたとき,甚左衛門も江戸入りをして,真上村の笠森稲荷を江戸谷中に勧請したと伝えている。
 現在,東京上野の谷中には笠森稲荷を祀っている寺が三箇所ある。天台宗養寿院,浄土宗功徳寺,日蓮宗大円寺の寺々であるが,江戸古図の所在地からみると,浄土宗功徳寺が一番近いように思える。
 この笠森稲荷の本源は,大阪市高槻市真上に鎮座する笠森稲荷社である。」(「木のメモ帳」HP 番外編「江戸に遊ぶ」「江戸生活・風俗ことば」より引用)

 すでに日本各地に勧請されていた「笠森稲荷(かさもりいなり)」ですが、「三島女郎衆」は三島宿に唯一あった「誓願寺(三島市北田町)」の「瘡守(かさもり)稲荷」を信仰していたようです。文献(「東海道箱根峠への道-箱根八里西坂道の歳月-(中部建設協会静岡支部編集)」P104~P121)に掲載されている写真の社(やしろ)には沢山の小さな白狐が奉納されています。

 今回は「三島女郎衆」が信仰していたという「誓願寺(三島市北田町)」の「瘡守(かさもり)稲荷」にお伺いしました。

「誓願寺」は「三島市役所(三島市北田町)」の南隣にあります。

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「県道21号線向側から「誓願寺」を見たところ」(2009年10月撮影)

またまた、突然、お伺いしてしまいましたが、ご住職は快く応対してくださいました。

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「誓願寺」(2009年10月撮影)

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「誓願寺」(2009年10月撮影)

早速、掲載されている「稲荷」についてお聞きしたところ、

 ご住職のお話では記憶は定かではありませんが、平成7年(1995年)頃「県道21号三島裾野線」(国道1号線南二日町I.C(三島市東本町2丁目)の起点から「県道22号三島富士線(旧東海道)」の大社町西交差点まで)の道路拡張・拡幅工事に伴い「誓願寺(三島市北田町)」の一部と隣接していた「田福寺」が計画路線にかかっていたため「田福寺」は三島市谷田に移転し「誓願寺」の境内にあった「瘡守(かさもり)稲荷」も解体撤去されることになったそうです。ですから現在はお社はありません。(当時の写真の有無についてお尋ねしたところ手元にはないとのこと。)
 最後に、ご住職に持参した当時の写真が掲載されている文献(「東海道箱根峠への道-箱根八里西坂道の歳月-(中部建設協会静岡支部編集)」P104~P121)を見ていただき確認していただきました。ゆくゆくは改めて稲荷を祀る計画があるそうです。

※写真にはお社に沢山の小さな白狐が奉納されています。写真提供は「三島市郷土資料館」となっていますので追加調査してみます。

ご住職どうもありがとうございました。

〇追加取材

「三島遊廓」について

 最後まで残っていた「萬字楼」の建物は、三島市立図書館に所蔵されている一番古い「ゼンリンの住宅地図、三島-附長泉・函南-’72年版」(東海善隣出版)を見てみると昭和47年には所在地は「村岡荘」となっています。
 その後、いつ取り壊されたかは不明です。(「伊豆(谷亀利一著、湊嘉秀著)」(保育社)の7ページに「三島遊廓跡」として写真が掲載されています。)
 現在、所在地と思われる場所は一般住宅となっていました。

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「右手奥が所在地だった場所です。」(2009年10月撮影)




資料

「遊廓」

「近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原遊廓を設けた。17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。島原、新町、吉原が公許の三大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。」(リー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

「花魁」

「花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。 18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。
 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


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