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11月14日の文学講座は、わたしにとって非常に有意義なものでした。
 先日来「文學カヲル三嶋~青春ノ太宰治~」のシナリオ執筆に向けて、色々と調査をしてきました。
 舞台が昭和9年(1934年)ということもあり資料調査も難航しています。

太宰が三島について書いた小説「老(アルト)ハイデルベルヒ」の

「あ、バスだ。今は、バスもあるのか。」と私はてれ隠しに呟(つぶや)き、「おい、バスが来たようだ。あれに乗ろう!」と勇んで友人達に号令し、みな道端に寄って並び立ち、速力の遅いバスを待って居ました。やがてバスは駅前の広場に止り、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが白浴衣(ゆかた)着てすまして降りました。私は、唸(うな)るほどほっとしました。」

 当時の東海道本線「三島駅(現、JR東海、御殿場線下土狩駅)」の「乗合バス」について「この駅から三島の広小路まで運行していたバス会社はどこなのか?また運賃はいくらだったのか?」など、ひとつひとつを検証していくと膨大な資料を調査しなくてはなりません。
 ですから、講演で中尾氏が言われていた「調査と検証は大変だ!」は頷けました。

 そんなこともあり文献資料からは見出せない部分で、中尾氏が当事者から直接聞いたものについては大変参考になります。

 その一例として、小説「満願」についてのくだりで主人公が自転車で転んで怪我をした経緯について、

坂部武郎さん「確か伊豆国分寺の境内だったと思います。」だったり、

怪我をした主人公を治療した「まち医者」については、

「今までの調査で99%で、当時、産婦人科を開業していた今井直先生ではないか。と確信している。」

 また、根拠の裏付けとして、当時、今井医師が勤務していた「三島社会保険病院」や「奥様」、そのご子息まで聞き取り調査をされていることに感銘を受けます。

 わたしも、小説「満願」を読んでみて、改めて中尾氏の著書「三島文学散歩」に掲載されている写真を見た時、太宰が描写したイメージから推察すると、やはり今井直医師ではないかと思います。
 今井医師は「俳句や俳画で活躍した趣味の豊かな文化人である一方、大変な※「艶福家(えんぷくか)」でもあり芸者置屋「加賀稲」の葉書姐さんとは親密な仲だったようです。」
 当時、三島花柳界は全盛期で町内にあった「六反田(現、広小路)」の「広瀬楼」や「料亭 登喜和」、「大中島町(現、本町)」の「料亭 双葉」などでは、連日連夜、盛大に酒宴が催されていたようで、夕刻ともなると芸妓や舞子さんが町内のあちらこちらでしゃなりしゃなりと歩いている光景が目に浮かぶようです。
 その後、三島の衰勢とともに三島花柳界も衰退の一途を辿り六反田(現、広小路町)にあった「芸妓組合」もなくなってしまいますが、中尾氏の話では、三島の芸妓たちは千葉に移られたそうです。
 
 わたしは、シナリオの中で「まち医者」を「産婦人科医」として、また、三島花柳界でも名妓といわれた「葉書姐さん」を登場させ、主人公の津島修治に「人間の誕生」と「命の尊さ」「芸妓」の※「機微(きび)」を諭す役回りをしていただこうかと考えています。

※「艶福家(えんぷくか)」・・多くの女性に愛され慕われる男性。
※「機微(きび)」・・表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情。

 ここからは、わたくし事で恐縮ですが・・・今井直医師を調査していて「ふと」昔の出来事を思い出しましたので少し述べさせていただきます。

わたしが大学を卒業してある会社に入社して間もない頃の話です。
 ある日のこと。残業もひと段落し先輩に飲みに誘われ会社の近くにあった「ディオール」というスナックに行きました。
 当時は、今のようにキャバクラ全盛ではなく飲みに行くといえば、もっぱらスナックでした。どのお店も店内の照明は少し暗め目で、ほとんどのお店はカウンターとボックス席。そしてカラオケが定番でした。
 今のようにキャバクラでドンチャン騒ぎという乗りはなく落ち着いた雰囲気の中で女の子との会話とカラオケでのデュエットを楽しみました。

 その日は先輩のキープボトルで乾杯し、先輩のお気に入りのB子さんと他愛もない世間話をしていましたが、暫くして出勤してきたのがA子さんでした。その姿を見て、わたしはひと目で気に入りました。色白で何処となく影のあるような、およそ水商売には不向きな感じの女性でした。
 それから、給料が入ると月に何回かは行くようになり、気心が知れてくるとお互いに少しプライベートな内容に触れるようになりました。

 このときA子さんは某国立病院の小児科に勤務していました。彼女の話では新潟出身で地元の高校を卒業後、この病院の准看護学校に入学し准看護婦の資格を取得してからは産婦人科や小児科を担当するようになったということです。
 国立病院では、一般の病院や医院では対応できない重病や難病の患者を受け入れます。毎日のように近隣の病院からの紹介で色々な患者さんが診察に訪れたそうです。

みなさんは「無脳症」という病気をご存知でしょうか?

「妊娠中の胎児の脳が正常に形成されない病気で1万人に3~5人が発症し、ほとんどの場合、死産するか出生直後に死亡する病気だそうです。」

 ある日のこと。いつものように話をしていると、突然、A子さんがこの「無脳症」のことについて話をはじめました。
 その日、わたしは彼女を落とすつもりでいましたが、何もせずタクシーでそのまま自宅まで送り届けました。
 その後、お店ではプライベートな話はしなくなり最後まで彼女からお店に勤めた理由を聞くことはできませんでした。暫くして、わたしの転勤などもあり挨拶もしないまま連絡先も取らずに彼女とは終わってしまいました。
 思えば、あの時余程辛い事があったんだと思います。ですから親しい友人もなく、わたしに打ち明けたのだと・・・。
 今、考えると彼女自身、隔絶された夜の世界に身を置くことで精神を安定させていたんだと思います。

 その他にも、看護婦(師)をやっていて、一番辛かったのは診察に来る重い病気を抱えている子供のお母さんたちの顔だったそうです。
 今の医療は、昔とは違い高度な医療技術と治療薬により、子供の病気や妊娠・出産における女性の負担は軽減されていますが、やはり危険は伴います。母親になるということは男性が思っている以上に大変なことなのです。ですから職業とはいえ看護婦として、はたまた、ひとりの人間として、また、同じ女性として、その方たちの心情を思うと居た堪れない気持になったそうです。

 ご紹介したのはある病院に勤務していた看護婦(師)さんの話でしたが、それ以上に今井先生には色々な経験があったと推察します。
 太宰治は、幸運にもそんな産婦人科の医師にめぐり合い、1ヶ月という短い期間ではあったにせよ色々な話を聞いていたに違いありません。
 このことこそが、親友の坂部武郎さんをはじめ妹の愛子さんなど三島で出会った人たちに触発された重大な「三島の思想」だったのではないでしょうか。


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